錬金術師と狂犬症候群(レイビース・ナイト):25

 数分後、錬金術師が大路を支えながら『クレッセント』の正面玄関から出てくると、ちょうど充琉が警官隊に手錠をかけられながらパトカーに連行されているところだった。彼女と視線がかち合い、ポケットに片手を突っ込んだまま錬金術師はやれやれと肩をすくめてみせる。
「……面倒くせえ女だよ、テメェは本当に」
「そう、かもな」
 もう充琉はその言葉に反論する気力を失っていた。誰と勝負したわけでもないが、確実に自分は負けたのだ。ただ楼亜をこの街から遠ざけようとしたかっただけなのに、そのために失ったものも、これまで費やしてきた労力もあまりにも大きすぎる。それらが全て無駄に終わってしまった今、強気に言えるようなことなど何もない。
 観念したように目を伏せ、またゆっくりと充琉が歩き出す。そこに駆け寄ってきた緋芽の姿を確認すると、錬金術師はぐったりした様子の大路を顎で示して。
「早く動けるようにしてやれ」
 大路の動力源は血液だ――わずかでも血を与えてやれば、最低限自力で歩いて帰れるだけの余力は取り戻せる。緋芽は大路の体を受け取ると、錬金術師とは目を合わせずに小さく呟いた。
「……ありがと。一応お礼は言っとく」
 が、錬金術師の表情は何故か優れない。緊張を宿した口調は少しも緩んではおらず、ぴしゃりと緋芽の言葉を遮る。
「喜ぶのはまだ早えぞ」
「え?」
「何か引っかかる。本当にこれで――」
「充琉ッ!」
 終わりなのか、と錬金術師が言いかけたその時だった。開店の準備にやって来た楼亜が事態を察し、連行されていく充琉の背中に呼びかける。その瞳は大きな戸惑いに染まっていて、身ぎれいに整えた上等なスーツに不釣り合いなほどに彼の姿は頼りなく見えた。
 もう、話すまでもなく楼亜は全てを察していた。この状況が示すのは全てを仕組んだのが充琉であることで、そしてその動機が恐らくは自分のことを案じてだったのだろうということも、直感的に理解出来た。理屈などどうでもいい、充琉はずっと自分を助けて、支えて来てくれた――その彼女が自分を裏切るつもりで行動を起こすはずがないと信じられた。
 充琉が、ゆっくりと楼亜に振り向く。しかしその次の瞬間、彼女の目は大きく見開かれていた。見てしまったのだ、楼亜の後方に迫る『ソレ』の姿を。
「楼亜ッ!!」
 振り向いたその視界に飛び込んだのは、表皮がボロボロになった『狼男』の姿――錬金術師の抱いていた違和感の正体だった。そう、店内には姿がなかったのだ。充琉がメンテナンスに出したガード用マキナの成れの果てが。大路と同じく人間の血液を動力源とするが故に、暴走状態で無差別に人々を襲って自らの糧として来たであろう最悪の『狂犬病兵』が。
 スローモーションのように、マキナが大きな獣頭の口を開いて楼亜に噛みつこうとする瞬間が全員の視界に映る。とっさのことで誰もが反応出来ず、襲撃者に振り向いた楼亜も同じように目を見開くしか出来ずに無抵抗の状態でその咥内を見ている。

 しかし、その牙が彼に届くことはなかった。
 ただ一人、真っ先に襲撃に気付いた充琉が警官隊を振り切って彼を突き飛ばし――代わりにその牙を突き立てられたから。

「ッぐ、ぁ、かはッ」
 牙は一瞬で頸動脈にまで達していた。充琉の口から吐息と共にゴポリと血が吐き出される。未だ首筋に噛みついたままのマキナは獰猛な呼気を吐き出しながらその体を抑え込もうと両腕を広げている。
「チッ!」
 そこでようやく錬金術師が動いた。一気に疾走すると獲物を捉えて油断しきっていたその胴へ『フラスコ』を思い切り突き刺して、その勢いのままにマキナを地面に押し倒す。
「ガァアアアッ!!」
 胴を貫いてもまだマキナは機能を停止していない。咆哮と共にジタバタと暴れまわりなおも周囲の人間たちをその牙にかけようと目を光らせる。錬金術師は『フラスコ』を深々と胴に突き立てたまま、容赦なくその頭部に全体重をかけて獣頭を踏み砕いた。
「うるせえ、水差してんじゃねえよガラクタが!」
「ガバッ!!??」
 さすがに頭部を砕かれてはマキナも動けない。ようやく全身の力が抜け、完全にマキナが機能を停止したことを確認する錬金術師。その口元は悔しげに歪んでいた。反応が遅れてしまったせいで余計な犠牲を出してしまったのは事実だ。犠牲を止められなかった責任は、自分にあるのだから。
「充琉!おい、充琉ッ!!」
「しっかりして充琉!アンタまたバカなことッ!!」
 おびただしい量の血を首筋と口から垂れ流して倒れる充琉に、緋芽と楼亜が懸命に呼びかける。犯した過ちが何であれ、彼女は二人にとってかけがえのない人間だ。その悲痛な呼びかけが暗くなり出した空に響き渡る。だがもうその呼びかけはほとんど充琉には届いていなかった。どんどん彼女の視界は輪郭を失っていき、意識も徐々に曖昧になっていく。そんな中でぼんやりと充琉は思考する。
 ――ああ、やっぱり言った通りだった。余計な犠牲者を出し、挙句大事な仕事仲間にまで怪我をさせて。朱纏への裏切りの対価は覚悟の上だったが、そんな自分が警察に身柄を預けて少しでも安全でいようとするなんて。
「は、だから、言ったんだ」
 渇いた笑みと共に、また血が溢れ出す。視界の先にはおぼろげに見える月。もうその輪郭すら見えない。薄れていく意識の中で最後に思ったのは、先ほど緋芽にはっきりと言った自分の言葉だった。
「そんな虫のいい話は、ないって――」

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