錬金術師と狂犬症候群(レイビース・ナイト):11

 狐が潜伏している薄暗いアジトに足を踏み入れた錬金術師は、そこでふとある違和感に気付いた。本来ならそこにいるはずのもう1人の住人の姿がないのだ。視線の先、巨大な椅子の上で動かない狐の背中に向けて問いかける。
「あのクソガキはどうした?」
「餓鬼(グール)は別件に対応中よ。あいにく、こちらも忙しいの」
 四肢が動かない狐の従者であり、文字通り手足の役目を果たす餓鬼(グール)。その彼が狐の傍にいないというのは珍しいことではあるし、かつそちらの『別件』とやらも相当重要な案件なのだろう。そのことも気がかりではあったが、今はそちらよりもまず片付けなければならない難題がこちらにも降りかかっている。
「それよりもこちらの話が先よ。錬金術師、お前の用件は――『狂犬病兵』のことでしょう?」
 遮るように、狐が口を開く。やはりと言った感じで錬金術師は肩をすくめ、皮肉げに口の端を歪めて返答する。
「やっぱり盗撮してんだろ、俺のこと」
「軽口を叩いていられる事態でもないでしょう。まあいいわ、話が早くて助かるし」
 そう語りながら、狐は目の前のディスプレイを視線で操作して『狂犬病兵』の画像を大写しにする。どうやら先日から街で発生している事件の様子を付近の防犯カメラが捉えたものらしい。狐の表情はやはり電話で感じた通り緊張感が増している。
「誰かは分からないけど、こんなものを掘り起こして来るなんて正気の沙汰とは思えないわよ」
「同感だ。俺だってこの目で見ることになるなんて考えもしなかったぜ」
「お前も見たのね、実際に」
「おかげさんでな。その関係の仕事も舞い込んで来ちまってるよ」
「そう、それは本当に面倒なことになったわね」
 本来ならば記録ごと完全に抹消されたはずの禁断の兵器『狂犬病兵』。それがこうして現実に現れて凶行に及んでしまっているという現状。錬金術師も狐もその事態の深刻さは暗黙の内に共有出来ていた。
 この事態を早く収束させなければ、今に街中が大パニックに陥るだろう。お互いに抱えている案件や仕事だけに集中出来るような現状ではない。錬金術師が言葉を続ける。
「聞きたいのはデータの在処だ。目星はついてるのか?」
 何かしら情報を握っていてもおかしくないという期待感はあったが、決して確信にまでは至っていない。空振りに終わっても仕方ないというくらいには覚悟はしてきたつもりだった。
 そんな錬金術師の問いかけに、狐のため息交じりの返答はというと。
「一応はね――というよりも、急に降って湧いて来たという方が近いわ」
「……マジかよ」
 思ったよりもあっさりと色好い返事が返ってきたことが、かえって驚きだった。そんな錬金術師の顔色をよそに淡々と狐は視線でさらにディスプレイを操作する。入れ替わりに大きく映し出されたのは設計図の画像――シルエットからして『狂犬病兵』のあのヘッドギアのものに相違ないことは一目で理解出来た。
「誰かさんが掘り出してきた後、どうやらデータをそのまま抹消せずに置きっぱなしにしていったみたいね。まあ、こちらとしては幸運ではあったけれど」
「アンタが盗んだってわけじゃねえんだな」
「こんな厄介なネタ触りたくもないわよ、私だって。というか随分今日は絡んで来るじゃない?」
「冗談だよ、聞き流せそのぐらい」
 幸運であったのは錬金術師にとっても同じことだ。設計図が手に入ったとなれば細かいパーツ構造や素材などといった一通りの情報も全てその中には揃っている。そして同時に、どうやってマキナを暴走させるのかその仕組みも把握出来るということだ。誰がどうやって設計図のデータをサルベージして来たのかは不明だが、後始末が雑で助かったとも言えるほどだった。大写しになった設計図のあちこちを流し読みしながら、錬金術師は即座に頭の中にその実像を思い描いていく。
「まあいいわ、とりあえず話を進めましょう。仕掛けの基点はピアスやネックレスなどの小さなアクセサリ。その中に形状記憶合金が液体化される形で収納されている」
「そいつが何かの合図で展開して、あの狼男がご誕生ってか。なるほど簡単に見分けはつかねえわけだ」
「そうね。事前に街中のマキナを搔き集めてアクセサリを調べようだなんて、どう考えても現実的じゃない」
 どのマキナに暴走の仕掛けが施されたのかを事前に把握出来れば対策も取りやすかったろうが、その線はひとまず消えてしまった。とすれば他の切り口を考えなくてはならない。すぐに思いつくものとしてはその仕掛けを無力化するという方向性だろうが、それなら暴走を引き起こす『合図』の特定が必要だ。錬金術師が一歩踏み出して狐の横顔に問いかける。
「暴走のスイッチは分かるか?」
「ええ。それなら設計図にもあったわ。通称『犬笛』――仕掛けを起動させる特殊な信号を発信する遠隔スイッチよ」
 そう狐が返答するや否や、切り替わるディスプレイの表示。まさしくその通称通りに小さなホイッスルのような形状をした『犬笛』の設計図だ。スイッチ一つで虐殺を引き起こせるとはまさに最低の殺戮兵器だと言える。何処とも知れない国の支配者への軽蔑の念が胸中で増していくのを感じ、錬金術師はチッと舌打ちをする。こんなものを思いつく思考回路の持ち主こそ、そもそも正気の沙汰ではない。
「信号をキャッチした仕掛けが展開して、暴走した『狂犬病兵』が誕生する。となればその信号を無力化させるのが当面の対処法としては有効でしょうね」
 対策の方向性は明確になった――が、それで全てが解決というわけではない。錬金術師は渋い顔で腕組みをする。
「問題はその信号だがな。特定は出来てるのか?」
「残念ながらそこまでは」
 暴走を引き起こす『犬笛』を無力化するのであれば、その信号を相殺出来る性質を持つ信号を発信しなければならない。しかし信号がどのようなものかといったところがはっきり分からなければ発信機を作ることも困難だ。つまりそこが錬金術師に狐が話そうとしていた話題の肝になる部分である。その発信機を作れ、と言うつもりだったのだ――何のヒントもない状態で。
「……無茶振りにも程があるだろ、テメェ」
「だからって黙ってこの事態を見過ごすとでも?」
 恨めしげな錬金術師の抗議を真っ向から打ち返すような、狐の有無を言わせない逆質問。無茶な話なのは間違いなかったが面倒ごとを押し付けられても仕方ないと覚悟はしていたし、この状況を看過出来ないという指摘もその通りではあって。錬金術師は肯定の意を渋々表すように舌打ちをする。『狂犬病兵』の設計図が手に入ったことは大きな収穫ではあったが、同時にもう一つ舞い込んだ依頼が新たな悩みの種となって、彼の頭を支配し始めていたのだった。

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