しょぼい建築家ってグラデュアリズムかもと思った話。

こないだTLにグラデュアリズムというワードが流れて来た。
「漸進的」というワードが凄くマッチしているように感じてグラデュアリズムを読み込んでみた。

※あくまでも主観的に捉えたことであることは先に述べておく。

グラデュアリズムとは

日本語訳すると漸進主義。
少しずつ前へと進めて行こう。と言うことだ。

グラデュアリズムは、手法も目的も規定しない。ただその運動に対する漸進的な姿勢に対して名付けられている。つまり逆説的に、どのようにチャネルを増やすかという手法と、なぜ増やさなければならないのかという目的によって、各プロジェクトの性質が決まる。デザインツールの提供によって技術の民主化を図るVUILDのEMARFや、レシピやスクールを通して改修のリテラシーの共有を図るモクチン企画を見れば、啓蒙的で支配的な仕組みによって量を増やすというよりも、主体的に参加してくれる人々とツール・メディア・教育などの手法によって連帯していく過程として見ることができる。重要なのは「トップダウン」か「ボトムアップ」か、という単純な二項対立では捉えきれない中立的な立場・方法を彼らが実践のなかで打ち出していることである。本特集の鼎談で秋吉氏が言及する概念としての「ミドルウェア」も、個々のソフトウェアを連帯させ、時に支配的な構造を借用しながら、あるヴィジョンへと進んでいくという中立的な姿勢を持つアイディアである。秋吉氏が言うような既存のサプライチェーンに寄生し活用するという手法には、近代的な生産システムを単に批判するのではないリアリズムが現れている。こうしたリアリズムは、巨大な産業連関の中で着実にチャネルを増やしていくために必要であり、ミシェル・ド・セルトー の言葉で言えば「なんとかやっていく」ための戦術である。

この言語は明快な定義がない言語である。
つまり、この時代に合わせて行われている、建築活動をグラデュアリズムと言う言語を与えようという試みであろうと思っている。

(違ったらごめんなさい。)

確かに、現代建築は多様なあり方が存在している。
であるならば、それらの共通概念として存在する、漸進的なあり方を示すグラデュアリズムと言う言語もいいのかもしれない。

そもそも、読み始めた理由は、漸進的と言う考え方がどこから来たのか、そして現代的な建築の人たちはどの様な手法を持ってして、設計やプロジェクトを行っているのかに興味があったからである。

漸進的なものであるしょぼい建築家

しょぼい建築家は存在そのものさえも漸進的であると考えている。

僕の考える「しょぼい建築家」は誰かに寄生することを提唱している。と言うよりも建築家と言う存在は、誰か力の強いものに寄生するしか生き方がないと考えている。

誰かが建物を建てたい。という事を考えないことには、仕事はない。
需要と供給のバランスである。
効率的に生きるのであれば建物を人生の中で何回も作るであろう、店舗経営者などに寄生する生き方が一番生きていくのに簡単だと考えた。

そして、しょぼい建築家の創る建物は本当にしょぼい。
建築雑誌に載せるようなきらびやかな建物は作らない。それは巨匠だったり巨匠になりたい人にお任せする。

出来るだけ低資本で自分とお施主さんで建物を作る。さながら自分の巣を作るように、生きるために建築を作る。

そして、売り上げや利益、お客さんのニーズ、お店のコンセプト、営業方針に合わせて、変化していく。

装飾を足したり
階段を作ったり
床を作ったり

こうした店舗として生きるという事象に密着した
微視的な行為の連関がグラデュアリズムの考え方と近いと勝手に感じている。

なぜ今グラデュアリズムなのか

ただ、こんなにも現代にグラデュアリズム的なモノがあふれてきている理由はなんでなのだろうか?

この対談の中でも出てきているが、インターネットやテクノロジーの影響が大きいと思う。専門性を持つことでさえもクラウド化され、それを一般的に使う事が出来るようになってきているからだとは思う。

誰しもが安価に様々な造形に手を出すことができるようになってきているからだろう。

そして時代の大きなうねりの中で、建築家が生き残る道を探した際に行きついた答えがグラデュアリズムと言う、小さな前進を繰り返し行っていくことだと考えている。

人口が減少し、経済は縮小していく中でいかにして生き残っていくのかの自然淘汰の中で生き残る術を検討した結果グラデュアルするしかなかったのが自分でグラデュアリズムを実践しているのかもと感じた僕からの印象である。

グラデュアリズムは現代建築家の生き残るための道しるべ

グラデュアリズムは現代建築家の生き残る道しるべなのではないだろうか。建築家の職能はどんどん減っている。

まず身の周りの微視的な関係性を観察すること、そこに宿る小さな政治性や倫理を着実に汲み取ることだろう。それは同時に自らが連関にどのような影響を与えているかを観察することでもある。日々建築行為のなかで繰り返される選択が事物の関係性を変容させうる。例えばたったひとつのサッシュを選ぶことでさえ、環境倫理への介入である。こうした小さな介入から始めて、ネットワークに対するチャネルの量を漸進的に増やしていくことが、現代的な社会改良の方法ではないか。それがまさにグラデュアリズムの目指すものである。

と氏は述べている。
微視的でいいのだ。周りの関係性を見直す事によって、そこに自分の生きる道が見えてくるはずである。




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