私が【選挙】に行かないワケ

政治的な提言はあまりしないのですが、
私は【選挙に行かない方が良いと思う派】です。
あくまでも私の意見です。ただ、この意見を見て「そういう考えもあるんだ」などで見て貰えれば嬉しいです。
本当に行きたいと思う人はもちろん行けば良いと思うし、こういう意見を見て行きたくない、と思う人は行かない方が良いと思うからです。

選挙はまず「間接民主制」の上に成り立っていますよね?
間接民主っていうのは、国民から(投票で)選ばれた議員が代表して法律を決めたりするモノです。
私達が決めるのではなく、私達が「選んだ人」が決めるので、言わば間接的に決めている事になり、間接民主主義と呼ばれます。

まずこの時点で端的に言うとおかしいですよね。
私達にとって何かを「決定」する人というのは『責任を負う人』じゃないとおかしいからです。

企業でも、責任を持つ人が最終的には決めるべきですよね?
社長が責任を最終的に持つならば、決定権は社長に行くべきです。社長が責任を持つのに、アルバイトが最終決定権を持つことは一般的に無いと思います。

つまり国会で決められたことの責任を誰が負うかと、言うと
最終的には国民だと思うんです。
消費税など税金の事、保障制度、飲酒運転などの法律やその他さまざまな事柄
最終的に責任を負うのは政治家ではなく(イチ国民としては負うが)私たち1人1人なのです。

政治家が負う責任は『役職』に対してです。
選ばれて、公表していたマニフェスト(すると約束していた事)が達成できなかったり、あまりにも不適切なコトをした時にその役職をまっとう出来ないと判断され(または自分で判断し)辞職するモノだと思うのです。

その議員を通して決めたことで国民に損害が行ったとしても、別にそれに対してその人がお金などを全国民に補償するというモノではないだろう。
つまり政治家が負う責任は国民に対してではなく、『役職』に対してなのだ。
それは当たり前だろう。
曲がりなりにも私たちが頼んで、決める事をお願いしているからだ。

例えば100人の村があって、過半数の51人以上が「1人」に代表(リーダー)をやって欲しいと頼んだとする。
その人はリーダーを引き受けて、その村の重要な決めごとを決定したりする。つまりその場合、村人がその人を信頼して、あなたなら任せられるから【決定】する事をお願いしてるのだ。
この場合、村人にも責任があるだろう。自分たちが決定をする代わりにその人に頼んでいるのだから。

だけどその代表の人があまりにも横暴なことをし始めたり、自分自身や家族のみにしか利益が行かない事を決定しようとし始めたら、辞職してもらうことも必要だろう。

だがその人を責め立てるのは、違うと思わないかい?

リーダーを決めた事は村人で決めた事なのに、その人にお願いしたいと、その人に任せた事なのに、
もしその能力がないと分かった時に「お前のせいだ!」と言えるだろうか?
その人に決定した・頼った村人の責任でもあるだろう。

でもそれが日本となると、人数も多いし感じづらいだろう。
議員を決めているのは国民投票(選挙)だが、首相(リーダー)を決めているのは更に議員だから、言わば間接の間接だからだ。

そこまで行くと上層部は組織票があったり、何か作為的(意図的)なチカラが働いていたとしても、おかしくはない。
組織というモノの黒い部分に少しでも触れた(近付いた)ことがある人なら、余計分かると思う。

そうなると【選挙】というのは、もはや
国民に自分で選んだ感を出させる為のハリボテ(虚構)だとも言える。

(もちろん選挙が一部でも出来レース化してるかは推測の域を出ないが、少なくともそうなっててもおかしくないと私は思う)

もちろん出来レース化していても、それが悪いと言いたいのではない、悪気がなくとも逆の立場ならそうしてしまうかもしれないからだ。

だから私は、選挙に行かない。そして選挙の【根本】に疑問を持つ人が増えればいいと思っている。
選挙に行こうと言っている人の中には、周りがそう言うから行こうよ!と言っている人もいると思っている。
だがもし、それで選挙に行くのであれば、私たちが責任を負うことになる【法律】を決めるのは議員さんであるという制度はいっこうに変わらないだろう。

そもそも選挙に最低投票数が決められてないのはおかしいと思わないかい?
例え国民の投票が1%だけだったとしても、その1%の中から政治家は選ばれるのだ。

国民が入れた投票が極端に少なくても、票さえ入っていれば【政治家】は選べると言うのだ。
つまり国民が全く入れなくても、立候補者の知り合い・関係者・組織票だけでも十分なのだ。
だけどさすがにそれだけだと、あからさま過ぎるので国民にももちろん投票して貰ったほうがいいのだと思う。
(なお、白紙投票でも「投票率」は増えるので、投票率だけ増えて欲しい人は「白紙投票でも行こう!」と言うかもしれない)

さっき出した100人の村の例えで過半数の51人以上が賛成したら1人の代表を決められる道理は分かると思う。
過半数が決めているのだから、民主主義と呼べるだろう。

ところが去年開催された参議院議員の選挙では全年代の投票率は48.8%と全国民の半数にも達していない。
半分以上が投票もしてないし、更に票が割れているところを見ると選ばれた人は例えば100人の国民のうち1人が投票していれば「法律を決められる議員」に選ばれるかもしれないのだ。

せめて選挙ということ「自体」、51%以上の過半数が票を入れてない限り、成立しないべきではないか?
選挙というシステム自体がまず【民主主義的(多数決的)】でないのがおかしい。

だから【最低投票数】が決まっていない時点で、選挙に行く事自体がおかしいと思ってもいい筈だ。

投票率が年々減少の傾向にあるのは【投票】に行ってもほとんど意味ないんじゃないだろうか…?と感じている人も多いからだと思う。その感性は私は、正しいと思う。もちろん選挙に行く事で本当に日本が良くなるのかもしれない。

だけど「選挙に行こう!」と主導して言っているのは、選挙がある事で『利益』がある人かもしれない。もちろん選挙に行く事で本当に日本が良くなるのかもしれない。

私が「選挙には行かない方が良いのでは?」と言う利益は、私たち1人ひとりが責任を持つ事ができる社会が訪れるかもしれない、という点だ。

選挙に行って、法律を決める人を決めるのではなく、
私たち1人ひとりが『責任を持って決めよう!』(またはそういう世の中にして行こう!)と言いたいのだ。

そこで私は、選挙の根本が崩れて(変わって)いけば、
間接民主制から「直接民主制」に移行出来るのでは、ないかと思っている。
(軽く調べたところ「スイス」が直接的なエッセンスを入れてるみたいなので、良ければ参考に)

「直接民主制」は法律等を最終的に決める人が政治家ではなく、政治家(法案などのプロ)が決めた草案を、国民投票で決める形などである。最終的に法律を【国民】が決める形にしたいのだ。

例えば政治家が出した草案→消費税を8%から10%にする【YES】or【NO】を、国民投票で決める。

予算の使い道をある程度政治家が絞る→国民投票で決める。

そうすれば【国民】も考えるだろう。
国民同士で議論するだろう、もっと自分事として関心を持ち、「消費税8%のままでいいかなぁ」「いや予算の使い道も自分たちで決められるのだから、10%のほうが恵まれない人たちにもっと機会(チャンス)を与えられるだろう!」って考えられるかもしれない。

今はスマホも普及しているのだから、国会で出た草案を「国民投票」でネットから投票できるシステムにしても良いかもしれない。せっかくマイナンバーもあるんだから、家族でパソコンやタブレットを共有して使っていても、マイナンバーごとで個人を識別して投票出来るのだから。
本来こういう使い方をするべきではないか(笑)

法律や予算の使い道の【責任】を最終的に負うのは国民1人1人なのだから、【法律】を決めるのも最終的には【国民】でいいのではないか?

と、私は思うのである。
だから私は選挙に行かないのである。
行くのも、行かないのも自由だがそれには【意味が説明】出来たほうが良いのかもしれない。