作品語りに見せかけた自分語り

「掬う」という題名の舞台に現在役者として携わらせてもらっている。


はじめに書いておくがこれは私自身の考えや感じ方であって作品とはあまり関係がない気がする。許可も特に取らず書いてしまっている。読んでるか分かりませんが原作者の安孫子さんごめんなさい。完本頑張ってください。


さて、掬うという題名だがあまり見たことない漢字である。私自身最初に題名を見た時漢字が読めなかった。
「救う」と何が違うのか?意味を見てみようと思う。

すく・うすくふ [0] 【掬▼う・抄▽う】
( 動ワ五[ハ四] )
① 液体や粉末の中に手・さじなどを入れて、一部分を取り出す。 「汁を-・う」 「泉の水を両手で-・って飲む」
② 液体の中や表面にいるものを網などで取り出す。 「金魚を-・う」 「浮いた灰汁あくをお玉で-・う」
③ 下から上へ曲線をえがくようにして横にはらう。また、下から上へ急にもちあげる。 「足を-・う」 「後ろよりかき-・ひて飛ぶやうにして出でぬ/宇治拾遺12」

weblio辞書より引用


このように書かれている。
今の作品において誰が何をいつどこでどのように何故掬い掬うのか。まだ答えは見つからない一方で私自身には掬った経験も掬われた経験もあるとぼんやり過去のことを思い出した。

辛い時、友人や恋人に話を聞いてもらったり抱きしめられた時なんかは落ちた地の底から掬ってもらったと感じる。これはよく使われる「救う」とも言える動作で生きていく上で必要不可欠なものだと思う。

でも「救う」ではなく「掬う」なのだ。

先ほど引用した辞書の②に金魚を掬うという使い方があると書かれている。金魚は掬われたのだ。救われたわけではない。
本来住むはずの水の中から、息ができない未来も見えない死と隣り合わせの空間に掬われる。自分の意思に反し、命からがらに逃げようとしても大きな力がそれを許さない。皆が無邪気に笑う。

小中学生のとき、学校もクラスも嫌いだったことを思い出した。私は金魚であり皆でもあった。掬われたのに、無意識のうちに誰かを掬ってもいた。

今更どうにかできるものではないが、なんだか奥底に眠る汚い靄を見てしまって、人間として生きているのが嫌になる。

贖罪なんて大それたものではないけれど、少しでも汚い靄を薄めるために掬うことについて考えている。

本当の救いのための掬うとはなんなのか。自他共に同じ水の中に溶け合って苦しみなんてない世界を目指すためにすべきことは何か。

その答えが少しずつではあるが見えてきている。小さな小さな「掬う」だけれど重ねれば地球も宇宙も救えるんじゃないかって。私は信じている。信じるしかないのだ。

そのための一歩、「掬う」という作品を作り上げていきたい。



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東京学生演劇祭2018公演
『掬う』

【作・演出】安孫子 陶

【場所】花まる学習会王子小劇場

《Dブロック》
9/14(金)19:00
9/16(日)11:00
9/17(月 祝日)15:00

チケット予約はこちらから→ http://ticket.corich.jp/apply/92887/013/
※備考欄には松浦舞子とお書きください。私が救われるかもしれません。


#蒸気展望 #掬う #演劇 #舞台

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