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合気道で学ぶ「失敗」と「あきらめ」の使い方:自分より大きなものを動かす方法について

人生において失敗とあきらめからは逃れることはできない。
ってことは逆に利用してちゃんと準備しときゃいいって話しでもあるわけだ。

成功し続けたり、あきらめないで同じ事をやりすぎると自由に動けなくなってくる。
合気道で相手を動かすためにはそんなこだわりを捨てて動かなきゃいけない。

失敗は動きだすために「あきらめる」のにちょうどいいキッカケになるんじゃないだろうか。

経験から学ぶ失敗とあきらめ

これまでにざっくり100人以上の人と一緒に稽古してみて「この人の技はイイなぁ」と思った人はだいたいあきらめた人だった。
色んな理由から自分の力が弱くなってしまっているけれど、だからこそある種のあきらめがその中にある。それが無駄のない美しさになっていて、その正しさの前には反発心も起こらない。

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(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』より)
色々と失敗したため人間をあきらめるDIO様
けっこう追い込まれないとこういうあきらめはできない。

合気道はあきらめながらつくっていくものだという気がしている。
身体の小さい人に上級者が多いのも身体の大きな人よりも力をあきらめるのが早いからなのかも知れない。

合気道の黎明期において象徴的なエピソードがある砂泊誠秀(すなとまり かんしゅう)という先生の話をしよう。
2010年に残念ながら亡くなられてしまったけれど、九州全土に合気道を広め
一時代を築いた。
その実力に関しても弟子や手を取った人たちの評価は高い。

先人から学ぶ失敗とあきらめ

なんらかの別の武道をやっていなければ入門も許されなかった時代に特別に入門を許され、10代から合気道一筋で31歳の頃に九州の熊本で道場を開き、その6年後には開祖から数人しか与えられなかった9段を認められた。

という話だけ聞けば順風満帆そうだけれど、実はそうじゃない。

砂泊先生はインタビューなどでよく「最初の頃は色々失敗して考えた」というような話をしている。
弟子の人から聞いた話によると砂泊先生は九州へとやってきた当初に開いた講習会で大失敗をしたのだそうだ。
本部道場にはその時のビデオが残されていて、そこに映るのはやってきた体格の大きな柔道家に何もできないでいる砂泊先生の姿だったという。

10代から学んだ自信のある武道を九州ではじめて広めるためにやってきて、そしてすべてを打ち砕かれたのだから、その苦しみたるや半端じゃなかっただろう。
だけどそれから6年で9段を与えられるまでに砂泊先生は変わったのである。
最初の失敗でたぶん砂泊先生は本当に信じていた合気道を実現するために色んなものをあきらめたはずだ。

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(島本和彦『無謀キャプテン』より)
たぶん、こんな気持ちだったはず……

あきらめてからはじまる

おそらくその失敗が影響してるんだろうけど砂泊先生は一時期、自分の手を取らせなかったらしい。つまり自分がどんな実力を持ってるのか、誰にも見せなかった。
相手に手をとらせて自分がうまく技をかけられなかったら、マジでダサいし、ましてや自分の方が立場が上なら余計にキツい。

誰しもそういう気持ちは持っているのだけれど、そのまま何もしないと進歩はない。失敗しないとあきらめることもできないからだ。
型稽古は勝ち負けがない代わりに、勝ち負けよりも明白な課題を見つける必要がある。

失敗ってのは誰でもする、それこそ何十年と修行してきた先生だってやらかすのだ。
だけどポイントはその失敗をしたときに何をあきらめるか?になる。
砂泊先生はその後、誰もが納得するような技を身に着けて誰にでも手を取らせるようになったらしい。

実際に自分も稽古で、あきらめきれてない人の手を取ると無理してるなぁという気持ちになる。あきらめてしまえばもっと楽になるのになと。
おれだってまだまだ力は抜けないけれど、それでも差がついていくことは明確にわかる。きちんと失敗しながらあきらめた方が前に進める。

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(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』より)

まとめ

まだまだ自分のことで精一杯だし、あきらめられない人を変えたいとは思わないけど、

そんなところにとどまってないでもっと動けば良いのにとは思う。

あきらめさえずれば楽になれるし、あきらめられればあきらめられるほど面白くなっていく。



でも文章をあきらめきれなくて、最近なかなか更新できない

マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?