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合気道で全裸を考えてみた【全裸男注意】

最近、立て続けに全裸男が現れたというニュースが出たので、唐突ながら全裸について考えてみようと思う。

最近は全裸の男が北海道で歩いてたり、茨城では車をぶっ壊したりして世間をにぎわせている。

全裸とは入身である。言ってしまえば全裸も一種の先制攻撃だから。

見た相手を混乱させるという意味では、実はけっこう強力だったりするが、しかし、所詮は全裸、諸刃の剣でもある。

全裸の強さについて

かつて海外のドッキリで喧嘩をふっかけて、やる気満々で上着を脱いで、そのまま下も脱ぐと相手は戦意を喪失するという検証をやっていた。
誰も変態とは戦いたくない。

相手の意表を突くことは立派な戦術ではある。

互いに武器をもって戦っている時に、不意にその武器を放り投げてそちらに気をとられた隙に攻めこむような戦術に近い。
確かにひとつの戦法としては有効だが、同時に失敗したときのリスクは計り知れない。

現代においては、全裸で外を歩いた時点で人として敗北しているともいえる。

全裸はなぜ強いのか?

全裸は確かに強い。見る者に混乱を巻き起こす、だが、なぜ全裸がかくも強力なのか?ということについては真剣に考えてみよう。

1800年代の絵画の世界では裸の存在は「神」として描かれている。

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(ウジェーヌ・ドラクロワによる民衆を導く自由の女神)
女神はトップレスでも許されるが、民衆は裸ではいけない。

アダムとイヴが知恵の実を喰ってイチジクの葉で身体を隠すようになって以来、多くの社会では全裸での活動とは神にのみ許される行為なのである。

現代でも全裸生活は人前では難しい。
それ故に、全裸でいるということは失うもののない存在であるという象徴と言えるだろう。

刺青が見えてたり、ピアスだらけだったり、髪の色が派手だったり、そういう見た目で違いを表現することの最上級が全裸なのかも。

もし全裸と戦わば

極真空手の大山倍達は、「もし刀と戦わば……」みたいな感じで色んな相手と戦う時の心構えや、注意すべき点を説いてきていたので、それに倣って考えてみよう。

全裸と戦ったことはねーし、戦いたくもないけど、想定しておくことは大事なのだ。たぶん。

全裸であることは確かに先制攻撃なのだが、同時にそれは一切の防御を捨てている。文字通り何も着ていないわけだし。
全裸は防御できない。ただひたすら攻める以外に選択肢がない状態なのだ。
だから防御を意識させればそれで終わる。

冷静に、まるで全裸ではないかのように扱われた時、全裸という状態は圧倒的な不利となって相手に戻っていく。
攻めが途切れた瞬間、もう何もできなくなるのが全裸だ。
全裸では合気道において「入身」と同じくらい大事な「転換」が難しくなってしまう。

剣道の試合においては宮本武蔵すら倒せると豪語した剣士、中倉清は年老いても圧倒的な強さを誇り、常に攻める剣道をしていたと言われている。
ちなみに、かつては合気道の創始者である植芝盛平の養子でもあった。
最後にこの中倉清に稽古をつけてもらった人の証言を紹介して真の攻めを感じて貰って終わろう。

先生と剣尖を合わせていただいているとぐぐっとせめてこられて、次にふわっとつっかい棒をはずされたように剣尖が移動する。それにつられて必然的に当方の剣尖がそちらに移動して剣尖がはずれた瞬間、角度をとりながら、あらゆる打ちが放たれているというわけである

内藤富男『有信館剣道の歴史と文化』より抜粋

まとめ

剣とは外したようでいて常に相手を攻めていなければいけない。
つまり攻めと引きは同時。

剣のつっかえ棒を外しても、意識の方まで外してはいけないのだ。

全裸ではそれができない。だからこそ、全裸には限界がある。

というわけで、全裸のご利用は計画的に!



おわり





マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?