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タンザニア中学生のインターナショナルスクール生活

2000年2月、中学生にとっては2年生として新学期がはじまろうかという時におれはアフリカのタンザニアにいた。

主に親父の仕事(国際支援系)によるもので、一般の中学生からすれば天変地異のようなことだがおれにとっては1年ぶり3度目のことでそれほどのことではなかった。まだ幼い小学生の妹は嫌すぎて泣いていた。

それから1年半ほどタンザニアで過ごすことになる。
おれは感覚がバグっているので、外国で生活する期間が1年半なのはわりと短い。

タンザニアのモシ

親父の赴任先はタンザニアのモシって所でおそらく多くの日本人にはまったく縁のない場所である。

ココ↓

アフリカ大陸最大の山、キリマンジャロがわりと近くにあって、わりとどこにいても見えるし、ちょっと首を上に向けないと見えないくらいには存在感があった。

ちなみにアフリカというと動物がめっちゃいそうだけど、野良犬すらほとんどみかけなかった。

インターナショナルスクール

14才のおれの記憶の大半はこのインターナショナルスクール・オブ・モシ(通称ISM)での出来事になる。

最初に校長と面談したけど何言ってるのか全然わからんかった。
海外生活が長いと英語力が身につくと思われがちだが、身につくのはよくわかんねー言葉で話しかけられても平然としてられる胆力くらいじゃなかろうか?

ちなみに校長の名前はホワイトだった。英語の教科書に出てくる人物みたいだけど、マジでミスター・ホワイトと呼ばれていたし、そんな感じの見た目だった。

クラス分け

確か最初に入ることになったクラスはS3というクラスだったと思う。
なんか中等部的な感じで小学生含めてS1〜S5かS6くらいまでのクラスがあったような気がするが定かではない。
さらにその上にIBクラスってのもあってこの辺りが高校生くらいのイメージだ。

インターナショナルスクールのおもろい所は色んな人種がいるということに尽きる。
もちろんタンザニア人もいるし、イギリス、アメリカ、オランダ、ナイジェリア、イタリア、ドイツ、スコットランド、インド、日本、それから日本とドイツのハーフとか、どっかの島から来たやつ、などなど多様なやつらがいた。

当時のタンザニアのモシはおれがそれまで暮らしていた国とは違って比較的安定していたので長く滞在している人が多い印象だった。平和だということは素晴らしい。

学校について

学校は制服はナシでみんな思い思いの格好をしていた、が、タンザニアなんで推して知るべし、別にそんなにオシャレな恰好があったわけでもない。
ちなみに建築もタンザニアなので、日本みたいに三階建てみたいな上等な建物じゃない。一階の平屋で屋根がついた吹き抜けの廊下があって、教室につながっているという感じだ。

代わりに敷地は広大で端から端まで行こうとすると徒歩で30分くらいはかかる。まぁそんなに遠くないように思うかも知れないけど、たいした遮蔽物もなく真っすぐ歩けるってところを考慮して欲しい。

美術・音楽・科学・パソコン・視聴覚室などの教室や各クラスの部屋、職員室などけっこうな数の教室があり、さらに寮も学年や性別で別れて数カ所、それから職員の家もあった。
プール、ラグビー場、サッカー場、バスケットボールコートが2つ、サッカーやバスケができるでかい体育館が一つ。登山用の装備などが置いてある倉庫みたいなとこもあって、あとは購買、ビリヤードができる場所、作業場、ジムとかだったはず。
在学中にほとんど行かなかったエリアもある。

教室以外の場所は学校内に点在する形で建物があり、その周辺は木々で覆われていたり、舗装されてなかったりしていた。

授業スタイル

イギリス系インターナショナルスクールだったんだけど、学校のシステムも日本と全然ちがっていた。
まず授業は6コマくらいあるんだけど、1コマ30分くらいで授業ごとに教室を移動をする。
授業内容は理科、数学、パソコン、体育、保健体育、母国語マザータング、英語みたいな感じで中には2コマぶっつづけの授業もあった。

ともかく授業は6コマで、なんと午前中に終わる。
日本みたいに給食があるわけじゃなく、有料の食堂はあるけど、みんな好き勝手に好きな場所で好きなやつとメシを食べるというスタイルだった。
家に帰って食べたって別に構わないのだ。

昼食後はクラブ活動の時間で、このシステムも面白くて13:00~16:00くらいの間に曜日ごとに色んなクラブが色んな時間帯に予定されてて、その中から好きなやつを選んで通う。
料理、木工、バスケ、サッカー、ラグビー、陸上、水泳なんかがあった気がする。

もちろんやってもやらなくてもいい。
やらないなら、学校で遊んでてもいいし、図書室で読書したり、パソコンルームでパソコンいじったり、水泳したり、スポーツしたり、なんでもして良かった。

学校の購買ドゥカ

金があれば学校内にあるドゥカ(スワヒリ語で店)でお菓子とかジュースも買えた。
ポテチやスパイシーなベビースターみたいなお菓子が安くて人気だった。ちなみにこのポテチの味は堅揚げポテトと完全に一緒で、カルビーが堅揚げポテトを発売してはじめて食べた時は懐か死するかと思ったほどだ。
完全に一致した。いやむしろカルビーがパクったまである。

ちょっと話はそれるが貨幣の話をすると、当時は1円が10タンザニアシリング(以下シリング)だった。つまりタンザニアシリングは日本円に換算するときゼロをひとつ外す。

ドゥカでは瓶コーラが250シリングで、瓶ペプシが200だった。
つまり25円でコーラが飲める。
しかも空き瓶を返還すると50シリング貰えるので実質20円なのだ。
こういうシステムなので金がないやつは学校中に落ちている瓶を探し回ることになる。
ちなみにドゥカの最高級品は500シリングくらいのキットカットだった。

店番プリシラ

ドゥカの店番はプリシラという女で、コイツが最高に最低な性格のクソ女だった。
まず初対面の相手には品物を倍額で買わせようとする。
誰かが「こいつはウチの学校のモンだよ」と言わないとふっかけ続ける。
接客態度最悪で性格もヒドいやつだった。
冷たいチョコレートをくれといったら置いてある店のチョコを冷蔵庫にサッと通して出してきやがったこともある。
ISMから転校して3年後くらいに旅行で寄った時も普通に店番していて倍額をふっかけてきて、マジで変わってねぇなクソババアと懐かしくなった。
せめて一回くらいは大金の入った財布を紛失するレベルの報いを受けてほしい。

あと店にはビリヤード台も置いてあったけどみんながポーと呼んでて海外ではポーの方が一般的っぽいことをここで知った。
ドゥカはいわゆるたまり場的な場所で授業が3コマ終わると長めの休憩時間があって、その時にはみんなドゥカで何かしら買っておしゃべりなんかしてたっけ。

おれのおサイフ事情

おれの母親は当然ながら日本人なのでタンザニアに来てレート差による金銭感覚バグを起こしており、
おれはお昼代みたいな感じでお小遣いを1日3000シリングくらい貰っていた。
こんだけあれば大富豪である。
学校で金に困ったことはなかった。

といっても使い道はそんなになくて、1日に3本くらいコーラ飲んでお菓子を食べる程度だ。後にこのことを妹にリークされて親からコーラは1日1本までと怒られることになるのだが、それはまた別のお話。

こういう風に書くと太っていたかのようなイメージがあるかも知れないが、実際は170cm45kgとかそんくらいだった。海外のメシというのはたらふく食っても栄養価が低いのか何なのか、全然太らなかった。
もしかしたら毎日バスケをしていたのが原因かも知れないが、そこは定かではない。

バスケ大作戦

金と午後からの暇な時間があるとどうなるかと言うと、一生バスケをすることになる。
最初こそ木工だのラグビーだのかサッカーだのに手を出してみたり、クラスメイトと遊んだりしていたが、次第におれは外のバスケットボールコートが住処になっていく。

学校がある日は4~5時間というスケジュールでバスケをしまくり、練習してるやつがいたら1対1をふっかけ、人数が集まれば試合をする。
絶対におれがバスケットコートにいるので、次第にバスケをしたいやつが集まるようになっていった。

なぜか学校に侵入してきた部外者までもがバスケをしだすので、バスケ人口は爆発的に増えた。
用務員からはお前のせいでコートがいつも汚れてるとキレられたが、知ったこっちゃなかった。

ちなみにバスケットボールクラブにもジュニアとシニアというのがあって、高校生に近い年齢から入れるのがシニアだったが、おれはそこにもシレっと参加した。
海外の学校のいいところは何となく合意を取れてればルールはわりと無視できることだ。そんなわけでこの時期のおれは日本人でも屈指のバスケやりこみプレイヤーだったと思う。

バスケで学ぶジェンダー

当時はアホだったので特にジェンダーだの何だなとか言うものを考えてなかったけど、今にして思うとおれのジェンダー観の根底を築いたであろうバスケ仲間がひとりいる。

そいつはナイカといっていつも2人の男とトリオでつるんでて、髪はスラムダンクの宮城リョータみたいにしてて、シニアの男子バスケ部に所属していたけれど女だった。

今にして思えば自分の性自認がどうのこうのというやつだったんだろうけど、そんなのは関係なくおれはナイカをめちゃ尊敬していた。女だってことに気づくのにも時間がかかったくらいだ。
なぜなら女でありながら男と張り合うし、ちゃんとスタメンを取っていたし、プライドを持っていたからだ。

運動能力が凄くて、シニアチームのエースをちらっと見て挑発しながら事も無いように遠距離シュートを決めたりしていた。
こういうやつがいるんだっていうことは、驚きではあったけどその在り方には尊敬の念しかない。

寮生活

意外なことに長年の海外生活に最初に耐えかねたのは母だった。親父のモラハラが原因なのか、タンザニアの風土が合わなかったのかは不明だ。

親父にも仕事があり、おれと妹はISMの寮に入ることとなった。
寮にはそれぞれキリマンジェロの部位に由来した名前がついていて、確かおれが入った寮はマウェンジ寮だったはず。
学年で振り分けられていて、四つくらい寮が学校内に点在していた。

門限があって鉄格子で出入り口を塞がれる。
朝昼晩は食堂へ移動して、ビュフェ的に何品か好きなものを選んで取って食べる形式だった。

他にも土曜日には夜にクレープの提供みたいなのがあって、門限も緩和されるので夜の学校で鬼ごっこをしたりした。
もちろんおれは朝にゲートが開く前に、自室の窓から脱走してバスケをした。
寮生活はクソ楽しくて、母親が日本から戻ってきてもおれは家に帰ることを拒否して寮生活を可能な限りつづけた。

ルームメイト

寮は2人1組が原則で二段ベッドだった。
ルームメイトは筋肉ムキムキで圧倒的な身体能力を誇るラグビー部エースのエリオット。金髪の白人だけどタンザニア生まれ。
学年が二つくらい上でなおかつ超絶な無口だったけど、おれは明治アーモンドチョコレートをシェアして仲良くなった。
日本のお菓子というのはタンザニアの菓子類に比べると圧倒的にうまかった。輸入する必要があるため貴重だったけどわりと仲良くなるツールとして有用だった。
とはいえエリオットとは最後までほとんど言葉を交わしてない。

やがてエリオットは学年があがって別の寮にうつったのでルームメイトが変わり、ジョセフというドイツ人になった。
コイツも学年はひとつ上でジャイアンみたいなキャラだった。部屋にくるなり壁一面に雑誌の切り抜きを貼りまくり、常にラジオを流し続けるという生活スタイルだった。

今にして考えてみるとだいぶ変なヤローだけど、おれくらいになるとこの程度の生活スタイルは許容範囲内なのだ。

キリマンジェロ

学校では行事としてキリマンジェロ登山があった。
5800mくらいの山で途中にいくつか拠点がある。学校行事ではとりあえず最初の拠点まで行って帰るって感じだった。

それとは別にガチ登山みたいなのもあって、これはなんと学校の授業が普通に行われている期間に希望者が参加して、学校そっちのけで山に登るというスタイルだ。

学校が登山リュックと登山靴を貸してくれて、食糧なんかを分担して詰めて登っていく。
途中で別のインターナショナルスクールのやつらと合流して登ったりもする。
これに2回くらい参加してマウェンジ峰の付近まで登った。ちなみにマウェンジ峰は登頂するのにロッククライミングの技術がいるらしく、その手前までしか行けなかった。
クラスメイトの中にはキリマンジェロ登頂したやつもいる。

キリマンジェロはたまに違法登山して死んだり、高山病で死んだりするけど、登りやすくていい山だったと思う。

帰国と得たもの

もちろん学校外でも色んなことがあったけれど、おれはこのインターナショナルスクールで1年半過ごして色んな経験をさせてもらった。

バカバカしいことばっかりやってたし、時にはやらかしたりもしたけれど楽しい思い出ばかりが残ってる。

そして、ここで一年半に渡って遊ぶために習得した英語力と暇すぎて本を読みまくったことによって得た国語力によっておれは日本の高校生活を乗り切ることになる。
この二つの教科はまっっっっっったく勉強しなくても模試で好成績をたたき出していた。つまり高校ではまっっっっっったく勉強しなかった。
英語を習得したけりゃ1年くらいタンザニアで暮らせ。

考えてみると日本ではこういう常軌を逸したような生活はそれこそタンザニアに行くようなレベルの思い切りがないとできなさそうだ。
そういう意味でも楽しい経験ができたと思ってる。そして毎日バスケを死ぬほどしていたせいで、今でも合気道をやっても稽古時間については常に不満がつきまとう事態に陥ってしまっている。

あーあ、1日5時間くらい合気道がしてぇよ。


有料には証拠じゃないけどおれの個人的な写真が2枚だけあるヨ。
当時がどんな雰囲気だったのかがチョッピリわかる程度なので別に買う必要はまったくないし、フォロワーや知り合いなら普通に見せてやるからDMしてね。

※想定を超えて知り合いがたくさん買ってくれたのが申し訳ないので、インターナショナルスクールとはあんまり関係なかった話をオマケに追加することにしました。

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マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?