合気道をやってて「強さ」ではなく「弱さ」を求めるようになった件:弱さの利点とは何か?
合気道をやるようになってから一番変わったのは「強さ」に対する感覚かも知れない。
前は強ければ強いほど良いと思っていたけれど、今は「強い」ということは余計なことだと思う。
むしろ「弱さ」に嫉妬する。
強さのコスト
「強さ」というは派手で誰の目にもわかりやすい。
それは筋肉だったり、フォロワー数だったり、お金だったり、とにかく多くの人が評価する「数値」のこと。
お金をどんどん稼ぐには常に仕事を続けて事業を大きくする必要があるように、筋トレだってつけた分の筋肉を維持するには鍛錬がいるし、SNSも更新しなければフォロワーは維持できない。
そして、金があれば使いたくなってしまうし、強くなるとせっかく手に入れたその力を振るいたくなるのが人情だ。
強さの裏側
実は人を動かしたり崩したりするのに力はほとんど必要ない。
必要十分な力がわかってくると、必要以上の力は過剰だと思うようになる。
過剰な「強さ」にはどんなに取り繕っていても隠せない「見栄」や「承認欲求」があって、合気道ならそれは触れた手を通して伝わってくる。
そういう時に「この人、強いな~」と思う。
強い人はカモにできる。ふっかければどんどん力を出してくれる。
強いことがわかると足元を見られてしまうのだ。
適当な弱さ
反対に弱いというのは必要十分だということ。
買わせようと思ってたのに、反対にこっちが何か買ってた、みたいな感じだ。
そこにはまったく強さを感じない。
虫が月と勘違いしてその周囲をクルクルと飛び回ってしまう電灯のように、ただそこに在る。
強さと違って弱さはわかりにくい。気をつけていないと見落としてしまう。
ほんの僅かなコストで目的を達成しようとしてくるからだ。
弱い者のヒエラルキー
強い者は上には上がいる。
どんなに金を稼いでもジェフ・ベゾスが奥さんに払った慰謝料にすら及ばない。
そんな戦いの螺旋から逃れるために弱さを目指すと競合相手はグッと減り、強い者を手球に取れたりもする。
弱さを知った気になって調子に乗ってしまう。
だがしかし、下には下がある。
本当に弱さを追求した人間を前にすると、自分がまだ強いことが悔しくなる。もっと弱くなるために、結局は沼へと沈んでいかねばならない……。
そんな風だなと、最近は思う。
おわり
マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?