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戦前の合気道の特徴とは何だったのか弟子たちの証言から考えてみる

合気道はよく戦前・戦後でわけられたりするんだけれど、実際のところ戦前の合気道ってどんななの?というのを調べてみた。

ちなみにあくまで証言ベースであり、実は言えない裏話みたいなのは一切考慮してない。

あと、伝書から読み解ける要素もあるけど、長くなるので今回は割愛する。
興味ある人はコチラからどうぞ⇒戦前の武道書『武道練習』『武道』から合気道を読み解く|合気道化師マツリくん (note.com)


前提

植芝盛平は1916年頃から大東流を習いはじめ、1920年頃に大本教に入って武道の指導者になっていく。

身長は低いが怪力で、1人で2人分の作業をこなしていたといったエピソードを持つ。

1925年あたりから東京でも指導をはじめ、海軍や陸軍、満州建国大学など指導する先が増えていき、その場によって指導内容は違ったようだ。

戦前の教えはモンゴルでの命がけの経験などを経て1931年頃に一撃必殺を旨とした教えから言霊へと指導が変化していった変遷の時期でもある。

(植芝盛平と合気道1.622,1206,1213)

参照した戦前の弟子

鎌田久雄 1929入門1933出兵
白田林二郎1931入門1937徴兵1960再開
国越孝子1932入門1941戦争の為中止
塩田剛三1932入門1955養神館合気道
米川成美1932入門1944出兵
杉野嘉男1932入門
葦原萬象1932頃入門大本教
奥村繁信1933入門
赤沢善三郎1932頃岩間少年部1933入門
天竜1939年3ヶ月のみ弟子入り
藤平光一1939年入門
砂泊諴秀1942入門

戦前の特徴

稽古スタイル

当時は準備体操はなく、弟子たちは体操などをしながら盛平が来るのを待つ。
呼吸運動が準備運動の代わりで、足腰を鍛え、呼吸運動から入って呼吸運動で終わるという流れ。
誰かが盛平から許可を得て稽古を主導していた場合でも、盛平が来ると全部やめて正座して礼からはじめていた。

盛平が手本を見せ、みんなが真似る。全員を投げることがあってもサッと投げて終わり。
盛平自身は百回に一度くらいしか受けを取らず、稽古は痛く固く厳しい。
受けが悪いと叱られるていたという。

特に座り技を重視しており、稽古は座り技からはじまる。座り技一教(一ヵ条)は最も稽古したと回想されている。
四方投げなども基本として重視していた。
当時は1~4ヵ条、四方投げはあったが、入身投げはなく、盛平が編み出した特有の技だとも言われている。
また呼吸投げは内弟子では井上以外にやる者のいない技だった。
祝詞や膝行に関しては指導はないが、みんな真似して覚えていく。

1942年に10代で入門した砂泊は盛平は形をやるだけで、内弟子をひとり前に出して、1~4ヶ条、入身投、小手返し、などを左右1回ずつ見せて皆にやらせ、技は1時間の稽古で3つくらいだったと語っており稽古内容自体は1930年代からあまり変化していないことが伺える。

相手と一つになる練習なので単独動作に意味はないという思想から一人稽古はなく、技の崩れを嫌ったからか弟子同士で勝手に稽古することは許されなかった。
満州大学では盛平がいない時に支障が出たため、富木謙治が合気体操などの単独動作を作った。

かなり気分屋な面があり機嫌が悪くなると帰ってしまうし、気分が良いと技に変化が出る。
また稽古時間は本人の方が弟子よりも長く、盛平にとっても稽古が進んでいた時期だったようだ。
(奥村・米川・白田・赤沢)

強く掴むことについて

相手の腕を強く握れという指導があったことに関しては、1939年入門の藤平や戦後1946年に入門した斎藤守弘が証言しており、戦前からそういった指導があったのだろう。

ただし二人の見解は異なっており、斎藤が強く掴むことが基本としているのに対して藤平は本来はリラックスしてやらなければいけないのに力を入れて掴めという指導は間違っていたとしている。

個人的な見解だが、力いっぱい掴むというのも、呼吸力的な意味で捉えるか、肉体的な意味で捉えるかで変わってしまうよう気がする。

武器稽古

赤沢によれば皇武館では剣杖はあまりなく、銃剣を少しやる程度で剣も短剣も形として見せるが実際には教えていなかった。
1937年に鹿島新当流から門人を招いて学んでから剣の指導も始まった。

国越は銃剣や槍で突きを受ける稽古や木剣での打ち込みを受ける稽古はやっており、剣が元であるという思想はこの時からあったようだ。

盛平の武器は派手な動きはなく急所を的確に決め、相手の打ち込みもわずかに動かして逸らすような動きだったという。
真剣白刃取り、今でいう太刀取りもあったようだ。

剣で四方投げの稽古をやっており、剣と体は同じ。杖も同じ。心が元で体の動きが手、手が杖になる。心の延長といった考えだった。

「入身は一の太刀、剣のすれ違い。相手が息を吸う時に飛び込み、技は吐く息で出す」
(国越・白田・塩田・杉野)

※補足
ただし、1925年頃には海軍将校の剣道教士、1933年頃には有信館の実力者だった羽賀純一を制しているので対剣の心得はあったのだろう。

軍部への指導

1930年代は相手を殺したり傷つける方法は嫌っていたが、殺す技術を教えていた。

1942年頃の憲兵学校では週に2回、1時間~1時間半の稽古で仕事で使える極め技が多く、2ヶ条や3ヶ条、小手返し中心で、相手を極めるまでやっており、呼吸力などの指導はなかったらしい。

投げ技はやって見せるだけで指導はせず、受けを取っていた砂泊は投げられて道場の端から端まで飛ばされ、起きあがるともう目の前にいてまた投げられるという形式で普段の道場ではやらないもので、技も入り身投げや四方投げではなく、取って投げるだけだったと語っている。
(砂泊)

教えてくれない

鎌田は説明してくれる時もあったとも言っているが、盛平は多くの場合、覚えるな忘れろといっており、多くの弟子が稽古は体系も順序もなく、昨日と今日の指導にもつながりはなく、稽古では頼んでも同じ技を二度見せなかったと言っている。

技にも名称がなく「四方投げ」「入身投げ」も便宜的にそう呼ばれていただけだったという。

1942年にも「技は考えるな」と語り〝どうやるか〟は教えなかった。
(鎌田・国越・塩田・米川・奥村・杉野・白田・砂泊)

無理がない

当時から無理な力は入れるなという教えだが、技自体は厳しく、受けた印象がフワッとしたものだという。

盛平は柔らかさではなく素直さが大事だとも語っており、奥村は柔らかいというよりは弾力があり弾んでいるが掴まれているような不思議な感だと回想する。

相手とぶつからず入身して相手を内に取り込めといった教えだった。
(奥村・鎌田)

盛平個人の逸話

凄まじいほどの気や気合であり、特に55歳頃に指導を受けた塩田はその頃の印象が強いようだ。
当時は大東流や皇武館を名乗り、力も強かったので力と力での稽古だったという。
特に富木、塩田は激しい稽古を受けていた。

盛平自身は他人の稽古をみて本質を理解する能力が高かったらしく、人の稽古を見ただけで出来るようになることがあったという。

肩に手を触れるだけで相手の腰をぐしゃっと折って崩す。すうっときたものをすうっと嘘のように投げる。八百長のようでなければ合気道ではないと語っていた。

型にはまらず、相手がどう変化しても構わない。

白田は動くだけで人を感動させたと回想していた。
(杉野・塩田・白田・赤沢)

当時の思想

思想的には大本の神武不殺だったが、隙があれば飛びこむ一撃必殺の教えだった。

力だけでは真の合気道は達成できないと悩み、柳の木の根に躓いて倒れた時にとっさに枝を掴むも木がしなりそのまま倒れてしまったことで悟ったという逸話が大本にあったらしい。

曰く「合気道は勝つ、いわゆる打っていくだけではなく、自分もころばなくてはいけない」

出口王仁三郎による晩年の霊界物語には言霊の話が多く、それを読んでから言霊について稽古で言及するようになり、痛くてきつい稽古方法が急に変わって神がかりのような状態になってきたという。

白田は本当に強くなるための「何か」については教えなかったように思うと回想する。

技の説明は神様の名前と働き「合気道は、もともと形がない、心のままの、体の動きが技である」としていた。
(赤沢・白田・葦原)

岩間での少年部稽古

少年部で教えたのは1カ条と四方投げくらいで、盛平自ら参加者全員を投げて指導していたが稽古は厳しく、参加者はすぐにやめていったために早々に大人たちとの稽古と合流した。

座り技は板の間でやるためにすぐに膝をすりむいて血が出ていたが、盛平は血を穢れとして嫌っていた。

赤沢は皇武館では大東流の巻物にあるような固い技、岩間に来てから力の入らない剣へと進んだとみている。
(赤沢)

鞍馬山での稽古

鞍馬山近くに稽古場を保有しており、何名かの弟子を指定して年に一度、特別な稽古をしていたらしい。
元関取天竜は満州で投げられて弟子入りしたが、3ヶ月やれば充分だろうと言われ、3ヶ月間盛平の受けを取り、仕上げとして鞍馬山に向かった。

鞍馬山では深夜から山頂まで盛平の背中を押しながら階段を上る。
「押しているという気持ちが先にたつと息も切れるし汗もかく、何もないと思って歩けばそうはならない」こうした押し方を「呼吸」としていたようだ。

朝3時から闇の中で稽古がはじまり、型稽古を行い、目が慣れてくる3日目くらいから木剣と立ち技を5日間し天竜は「もうこれで誰がきても大丈夫」と言われた。

塩田は深夜、真剣に白鉢巻きで互いに打ち込み合い、切っ先と剣風だけがわずかに感じられる稽古をしたという。
(塩田・天竜)

まとめ

戦前の合気道は戦後にはない痛めつけたり、仕留めるような技が多かったという話がある。確かに軍部への実践的な技の指導や柔術的な技にはそういった要素が伺える。

戦後のように明確な技の名称はほとんどなく、とにかくあらゆる状況下で倒すことが主眼にあったように思う。

当時は盛平自身が若く力も強かったことから、力と技の組み合わせで強烈なものに感じられたのかも知れない。

これと戦後の指導方法とを比較してみると植芝盛平という人の合気道の実態が見えてきそうな気がする。

そんなわけでもちろん戦後編もやるよ!

後編

主な参考資料

武道書を比較してみた


マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?