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合気道における「気」とは何か?そして「気を出す」とは何かを説明してみる

とりあえず個人的に思う「気」とは何か?を定義しておこう。

この世には気功をはじめとして、一口に「気」といっても色んなものがあり過ぎる。

そんな中で「気」を個人的に定義するならそれは「き」とつくものぜんぶだ

「き」とは「来」のこと

誰もがわかる「き」は「来たっ!」っていう「き」だ。

相手が攻撃してた、相手が向かってた、こういう「き」は誰でもわかる。

まずは漠然とこの「来た/来ない」の違いについて考えることが気を知るためのはじまりだと思う。

「き」とは「起」のこと

そうやって考えていくとわかってくるのは相手がこちらに来るためには、まずは「起こり」が必要だということだ。

何か行動を起こすためには起動しないといけない。

何の予備動作もなしに、遠くからいきなり目の前に移動したりはできないのだ。

動きには必ず動きはじめがあり、起動、起点、そんな「き」がある。

「き」とは「機」のこと

こちらに「来」るためには、まずは動きの「起」点があり、それがわかるとそこに「機」が生まれるのだ。

「機」とは物事のかなめ。

どんな場合でも攻撃をしようとする瞬間は隙が生まれてしまう。

そういう攻めれば勝てる瞬間が「機」であり、この「き」が見えるとそんな相手の起こりを抑えることができる。

「気」とは「き」のこと

「き」は別にこれだけじゃない。

「軌」「樹」「奇」「基」「記」「己」「危」「器」並べれば色んな「き」がある。

この全部が気のせいだからこそ、「気」とは「き」のことなのだと思う。

「気」をだす

こうして稽古していかないと出来ないのが「気」を出すことだ。

気を出すというと、超能力みたいなもので相手をふっ飛ばすと思われるかも知れないけどそうじゃない。

気を出すというのはぶん殴ってぶっとばそうとすることだ。

ぶん殴ってぶっ飛ばそうとしている「気」が相手に伝われば相手は避けようとするし、伝わらなければそのままぶん殴る。

めちゃくちゃ雑に言えば、これが「気」を出すということだ。

本気でぶっ飛ばせない人を見ても、ぶっ飛ばされそうだと思いはしない。

人が動くのにはちゃんと理由がある。

岩明均『寄生獣』166p

「気」を使う

気というのは要するに本気の寸止めみたいなもので、殴れるけど殴る代わりに気を使う。

「ない」ものを「ある」かのように思わせるには、ちゃんと「ある」かのように振舞わないといけない。

だから「気」というのはどこにでもある。

昔の「氣」は全体に広がっているという意味で米という字が使われていたというけれど、それは要するに「ある」ものすべてに気が入っているのだ。

だからその「ある」ものの中から気だけを出せば「ある」かのように思わせられる。

わかりやすく言えば「日常的にDVを受けていて旦那が手を上に挙げただけで怯える奥さん」みたいな関係性だ。

矛盾したもの、存在するすべてのものを削ぎ落して残ったものを出すのが「気を出す」ということなんだと思う。

まとめ

・気は「き」のこと。

・本当に殴る気がなければ「気」もでない。

・まず形をつくってから余計なものを削ぎ落す。

マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?