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カタツムリのように生きる

明日が仕事のため、今日は代休取得で久しぶりの平日のお休み。働き方改革でとにかく残業を減らすこと、休むことを要求される。いい時代になったものだと思う。

休みの日にやることはいつも同じ。朝5時に起きてロードバイクでいつもの道を走る。線路沿いの信号の少ない道路を走り手稲山の麓に到着し、そこから30分少しかけて自転車で山をひたすら登る。距離8km獲得標高500mのヒルクライム。平日でも結構な数のロードバイクとすれ違う。一瞬すれ違うだけだから確信はないけれど、土日と同じ人たちのような気がする。彼らは早朝にロードバイクで山を登ってから出勤するのだろうか。

6月の札幌の朝はまだ肌寒い。標高の高い山の上はさらに寒くなるから、ウインドブレーカーを着込んで走る。昨晩雨が降り、道路はほとんど乾いているけれど、両側の山の草木はしっとりと濡れて湿っている。

雨上がりだからか、今日は何匹ものカタツムリが道路を横断していた。登りも下りも踏まないように注意しながら走る。

走りながらカタツムリのことを考える。
彼らはどこから来てどこに向かっているのだろうか。
道路には彼らの移動した軌跡が濡れて残っているけれど、もうすぐ日の光を受けてその軌跡も乾いて消えてしまうだろう。その軌跡は消えてしまう前から何の意味もないように思われる。それはカタツムリが意識や意思を持たない(ように思われる)からなのだろうか。意識や意思があろうとなかろうと、大して差がないような気もする。

私たちは常にどこかからかどこかに向かっている。例えば私はいまロードバイクに乗って苦しみながら目的地を目指しているけれど、それに何の意味があるのかと言われれば、きっとそれはカタツムリが道路を横断するのとたいして変わらない、と私は思う。

彼らはどこに向かっているのか。
私はどこに向かっているのか。
それを考えることに、何の意味があるのか。

カタツムリが車や自転車につぶされずに、無事に道路を横断できればいいと私は心から思う。

その軌跡がすぐに消えてしまうとしても。




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