人生は暇つぶしなのか_浪漫飛行
1997年。大学生の私はとても自由だったはずだけれど、それでも自由になりたかった。今ほど売れていなかった斉藤和義も自由になりたいと歌っていた。
「生きていく事など死ぬまでの暇つぶし」
30歳の斉藤和義はそう歌い、20歳の私もそう思った。
「人生なんて死ぬまでの暇つぶしだよね」
私からの投げかけに
Tは「俺はそうは思わないけどね」と言った。
Tは同じサークルにいた同級生で文学部で哲学を専攻していた。2浪していたから私より2歳年上だったのだけれど、超ゆるい感じの性格の彼と私はフィーリングが近くて、仲がいいというよりは別に一緒にいても気にならないからいつも一緒にいるという感じで大学生活で一番一緒にいる時間がが長い友人だったと思う。当時はインターネットもなく、娯楽は酒とギャンブルとカラオケくらい。彼ともよく一緒にカラオケに行ったけれど、彼はいつも必ず米米CLUBの「浪漫飛行」を歌っていた。
「俺はそうは思わないけどね」とTは言った。
「俺は暇つぶしの意味がよくわからないんだよね。なんで暇をつぶす必要があるの?俺は暇なら暇のまま何時間でもぼーっとしていられるし、ずっとそうやって生きていきたいと思っているんだけど」
Tは真顔でそう言った。
その時は、なんてやる気のない男なんだ、暇つぶしをする気力すらないのかと呆れたのを覚えている。
暇はつぶすためにある。当時の私にだけでなく、斉藤和義もそう歌っていたし、多くの日本人にとって、昔も今も、暇はつぶすべきものだ。
でも、Tにとって暇はつぶすためのものじゃないようだった。彼にとって暇はそれ自体に価値があるのだ。暇をつぶさずに大切に暇のままにしておく。暇な時間に最高の価値を見出して、暇なままぼーっとして過ごすのが、Tにとって最高の時間の使い方なのだ。
「生きてく事など死ぬまでの暇つぶし」
それを否定する哲学科の男。
でも彼は哲学のことなんて、さっぱり勉強していなかった。
彼の家には哲学の本など1冊もなく、漫画が足の踏み場もないくらい、床からベッドの高さまで積まれていた。
「本読むのって苦手なんだよね」と彼は言う。
きっと彼の暇に関する哲学は、誰かからの受け売りではなく、自分で生み出したものなのだろう。
大学を卒業したTは札幌に残ってバイトでやっていた塾講師をそのまま続けていた。私は就職で札幌を離れてしまったから、それで疎遠になってしまった。私もTも他人に対してほとんど依存もしないし執着もしないので、物理的な距離が離れてしまったらそのまま「じゃあね」という感じでそのままになってしまうのだ。
ということで、Tとはそのまま離れ離れになってしまうはずだったのだけれど、それから何度か彼に会うことになる。
一度目はさっそく私が就職して札幌を離れた2003年だ。
私は就職した年にいきなりガンになり、雪国の実家のがんセンターで9か月闘病生活を送ることになった。その時に札幌から唯一見舞いに来てくれたのがTだった。その時に彼と何の話をしたのか全く覚えていない。基本的に入院中は手術後の激痛に耐えるか、死ぬほどしんどい化学療法をしているかだったから、ほとんど何も話していないのだと思う。そんな状態の人間のところに見舞いに来てくれるのは、本当の友達か、特に何も考えていない人間かのどちらかだ(Tは前者のはすだ、たぶん、きっと)。
その後、生き延びた私は東京で仕事に復帰してしばらく働いた後、30歳になる年に転勤で札幌に戻ってきた。
「札幌に戻るから一緒に飲もう」
そう連絡して彼の家の近くの焼き鳥屋で二人で飲んだ。
大学時代と同じ場所に彼はまだ住んでいて、まだ塾講師をしていた。二人で焼き鳥を食べながらいろいろ話をしたと思うけれど、何を話したか全然覚えていない。
せっかくだからもう一軒行こうと言う話になり、学生時代によく行っていたジャズを流すバーに行ったのだけれど、マスターはおらず若いお兄ちゃんがカウンターの中にいた。
「あれ?マスターはいませんか?」と私
「マスターは私ですけど」とお兄ちゃん。
「前はもっと年寄りのマスターだったとおもうんだけど」と私。
「ああ、Mさんなら隣の居酒屋にいますよ」とお兄ちゃん。
隣の店を覗いたら10年分、年を取ったMさんが確かにいた。
私を覚えてくれていて、昔の仲間の話や連絡先についていろいろ教えてくれた。水産学部だった友人が近くの喫茶店のマスターをやってるとか、10年たつと思わぬ人生を送っている人も少なからずいる。
Tはあの頃と変わらず、同じワンルームの部屋で漫画に囲まれて塾講師を続けていた。「まあ、しばらくしたら腰を据えるよ」とTは言った。彼が言うと「腰を据える」の意味が全然分からなくなった。腰を据えるって一体どういう意味だっけ。
彼には大学時代ずっと付き合っていた彼女がいたのだけれど、大学を卒業してしばらくして別れてしまった。彼が結婚するつもりも覚悟も全くないことに、彼女がきっと愛想を尽かしてしまったのだろうと勝手に想像しているけれど、それは二人の事情があるのだから、そのことについて私が詮索しても仕方がない。
Tの彼女は函館出身で札幌の医療系の学校に通っていた。しばらく札幌で仕事をしていたのだけれど、ある時に函館に戻って、それからしばらくして彼らは別々の道を歩くことになったようだ。
函館は小さな町だ。
私は一年だけ、単身赴任で函館にいたことがあるのだけれど、そこで一度だけ彼女を見かけた。
彼女は函館のソウルフード「ラッキーピエロ」というハンバーガーショップの十字街銀座店という函館の歴史的建造物の保存エリアにいた。彼女の実家は函館西部地区という歴史的に保存すべきエリアにあった。
彼女は少しかすれてすぐに裏返る声が印象的な女性だったから、私の前に並んでいる女性が自分の子供に声をかけた瞬間にそれが彼女だと気が付いた。私は妻と二人で並んでいて、妻も彼女を良く知っていたのだけれど、全然気が付かなかったようだ。私はなぜか群衆の中にいる知り合いとか、そういうことにとてもよく気が付く。彼女は小さな子供を胸に抱えたまま、保育園くらいの子供と手をつないで、夫と思われる男性と一緒に並んでいた。私は声をかけたほうがいいか一瞬迷ったけれど、結局声をかけなかった。私にとっての彼女の思い出と、彼女にとっての私の思い出は同じではないのだ。彼女は今ここで、きっと幸せに生きている。私が声をかけてもきっと彼女は嬉しそうに「たつろーさん!」と言ってくれたと思うけれど、二十歳のころとは違う人生を歩いている彼女に声をかける勇気が私にはなかった。
Tとも結局疎遠になって、もう15年以上連絡を取っていない。私もTも本当にずぼらでお互いに連絡を取らなければ、そのままになってしまうのだ。
暇を暇のままに生きる哲学者。
暇をつぶすために仕事にまい進するサラリーマン。
最後に会ってから15年経った。
もうきっかけがなければTと会うこともないだろう。
彼はきっと今も暇を暇のままに生きているはずだ。きっと同じ塾講師を今も続けているのだろうと想像する。
一方、暇をつぶし続けてそれなりの企業でそれなりの立場になっているアラフィフのサラリーマンである私。
人生は暇つぶしではなかったのかもしれない。
かれはきっと今も浪漫飛行を続けている。
それを笑うことができる人間など、誰一人いないと、私は思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?