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人に歴史あり、誰であろうと ~日暮里編~

2004年の夏。私と妻は埼玉県の和光市から日暮里に引っ越した。私の職場が銀座から赤坂に変わって(クラブの用心棒の仕事だ(嘘))、有楽町線沿線から千代田線沿線に引っ越したのだ。

死ぬほど忙しい職場で、すでに死にかけていたのでこれ以上死ぬリスクを高めないように通勤時間を減らして睡眠時間を確保するための苦肉の策。赤坂に20分で通えるところで若い夫婦が住める家賃の場所を探して日暮里にたどり着いた。日中は「ひったくりに注意してください」とパトロールの車が走り回っているようなそんな場所だった。今は治安もよくなっているかもしれない。

駅まで歩くと10分以上かかる場所だったので、遅刻しそうになると自転車で駅で行く。とはいっても駅前に駐輪場もなく、ひったくり注意の町に自転車を放置しておけばどうなるかはわかっているので、そこらへんに置いておくこともできない。だから私は遅刻しそうになると妻を後ろに乗せて二人乗りで駅まで走っていた。妻に駅まで送ってもらって(と言っても私が自転車をこいで後ろに乗せているのだけれど)、行ってきますと駅で別れて彼女は自転車で家に戻る。そんな風によく仕事に通っていた。


通勤途中の家にいつも朝から家の前に椅子を出して外を見ている爺さんがいた。いつもは自転車を飛ばしているのでよく見ることもなかったのだけれど、ある時ゆっくり自転車で走って何気なく爺さんを見たらどこかで見たことのある顔だ。しばらく思い出せなかったけれど、突然思い出した。あいつは服部はっとりだ。



ユニコーンの歌に出てくる服部

男の憧れ 憂いのダーティー・サーティー
男の黄昏 女にゃ憧れ
男は服部 女は真心
男は服部 女は愛敬
大人の恋なら キャリアが必要
その名も服部 世界を一人占め

ユニコーン 「服部」より

なぜユニコーンの歌に出てくる服部の顔を私が知っていたのかと言えば、私が当時よく聞いていたアルバムのジャケットがドアップの顔写真だったからだ。


この顔。



普通の爺さんだから他人の空似そらにということも考えられるけれど、どう見ても本人だった。だから私はネットで確認するでもなく、「あれは服部だ」ということで自分の中で確信して特に調べることもなかった。話をしたこともない。


あれから20年近く立ってふと思い立ち、今更ながらにネットで調べてみた。

やっぱり本人だ。服部こと中村福太郎さん。2019年に98歳で亡くなったという記事が出ていた。

私が毎日通っていた2004年は83歳だから当時もかなり高齢だったと思うけれどとても元気そうだった。そして必ず毎日会うのだ。家の前に椅子を置いてぼんやり外を眺めていたと思い込んでいたのだけれど、他の記事を読んだら毎日見かけた理由が分かった。


その記事はこちら。

 自宅前が通学路ですが、道幅が狭く子ども達が事故に遭わないか心配でした。それで、5年前程から見守りを兼ねて、女房と共に毎朝玄関前であいさつをはじめました。女房は「おはよう」と言われると「おはようございます」と子どもにも拝んでいました。今は体調を崩して入院中ですが、姿が見えないので心配して声をかけてくれる人もいます。
 大人にも責任はあるのでしょうが、最近の子どもは「おはよう」は言えても「さようなら」「ありがとう」が言えないですね。これからも挨拶運動を続けて、自然に挨拶が交わせる元気な子どもを育成したいですね。

上記の記事より抜粋

中村さんは家の前の通路が小学校の通学路になっていて道路が狭くて危ないので、毎朝子供たちに挨拶しながら子供たちが安全に通学できるように見守っていたのだ。だから毎朝あんな早い時間なのに毎日見かけたのだ。その道路は中村さんの挨拶運動にちなんで「ひぐらし小学校あいさつ通り」と名付けられている。

そんなことも知らず、妻を乗せて二人乗りで爆走していた20代の私。さぞかし苦々しく思われていただろうと考えると、今更ながら恥ずかしい。

大正生まれで日暮里生まれ日暮里育ち。戦争に行き、とび職として仕事をしながら地域の活動に取り組み、地域の子供たちの安全を思い、98歳まで日暮里から離れることなく生涯日暮里で暮らした。

それはきっと、普通の男の普通の生涯だったのだろうと思う。私が20代のころ、ただ自転車ですれ違っただけの人にも、これだけの歴史がある。

一人の人間の人生というのは、それだけで一つの物語だ。





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