見出し画像

20230526 我ガ仮説 否定サレリ

 私がなんとなく持っている仮説として「新たにつくられた祭は,継続していく中で真正性(authenticity)を高める目的で,古い由来を求めたり神事を導入することが多い」というものがあります。
 そのため,近年新しく生まれた祭の変遷というのに興味を持っているのですが,本日見つけた論文はそうした関心にぴったりのものでした。
 
武田篤志 (2014). 「谷山ふるさと祭」の変遷 : 第1回~第34回(1980-2013). 地域総合研究(鹿児島国際大学附置地域総合研究所), 42(1), 1 - 17.

  私は鹿児島に縁がありますが上の写真の様なド田舎のほうしかしらず鹿児島の市部の方は知らないため,谷山ふるさと祭という祭の存在は知りませんでした。鹿児島市の人口が増えて行っていた頃に「おはら祭」が混雑してはいけないということで昭和55年(1980)に生まれた地域祭のようです。確かにその頃は第二次ベビーブームで生まれた子どもが小学生などになり,祭の参加者もうなぎのぼりだった時期だから「祭を欲する人」というのが多かったのは分かります。
 論文では1980年から2013年の34回の祭を振り返り,以下の5つの期を見出しています。
 
第Ⅰ期 黎明期(第1回~第5回)1980~1984
第Ⅱ期 発展期(第6回~第15回)1985~1994
第Ⅲ期 転換期(第16回~第19回)1995~1998
第Ⅳ期 停滞期(第20回~第27回)1999~2006
第Ⅴ期 低迷期(第28回~現在)2007~
 
 こうして低迷していく過程については論文中に詳しく考察されているのでそれを読んでいただくとして,私が喜んだのは以下の記述でした。
 

 第Ⅴ期は,踊りの参加者数がさらに減少し低迷期にあるといわざるをえない。とくに節目となる第30回の踊り手は第1回を下回る2,700人だった――さらにその後も減少に歯止めがかからず,昨年の第34回にはついに2,000人を切った。谷山ふるさと祭がおはら祭りの普及を目的に総踊りをメインに始まったことを考えれば,この時点をもってイベントとしての歴史的役目を終えたとみなすこともできるだろう。現在は祭の存続も危ぶまれる段階にある。ただし,祭の活性化を図るべく平成19年(2007)の第28回から導入された「浜下り・傘鉾行列」は,祭の存続問題をこえてきわめて重要である。

 最初に書いた「神事」を導入することによる真正性の獲得,そしてそれを活かした祭の復活を目指す動きが生まれていることがわかり「我が仮説が認められた!」とにやっとわらっておりました。
 

 第三に,平成19年(2007)の第27回から導入された「浜下り・傘鉾行列」である。これは,谷山の歴史的・文化的遺産――ほぜ祭りの伝統――を取り入れることで祭の活性化を図ろうという目論見であり3,その点では一定の成功を収めている。実際,筆者が祭に参加した実感からいえば,現在では浜下りのほうが祭のメインイベントの地位を獲得しつつある。だが,裏を返せば,谷山ふるさと祭がそもそも谷山固有の場所性から乖離したイベントであり,その限界が見えてきたことを物語っている。

 この考察なども私の仮説を裏付けてくれている!うれしい!これは自分で論文書く時に引用するぞ!と思いつつ,せっかく少しは土地勘のある鹿児島の祭りなのですから公式HPなどあれば見て理解を深めますか~と思い調べてみると発見できました。
 https://taniyama-fes.com/

 https://taniyama-fes.com/about/

  しかし,「祭概要」のページをみても,浜下り・傘鉾行列についての記述はみあたらず,ポスターに文字で書かれているけどその取扱いは小さいなあと。
 そういう意味では,2007年の導入の時期には神事は期待されていたけれども,今ではそれほど重視されなくなっている可能性もあるなあと。
 ということで私の仮説は否定された可能性も高いですが,実際に見に行ってみないとわからないなとも。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?