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20230307 祭の撮影技術今昔

 自分の場合,カメラと祭であれば好きになったのはカメラの方が先で,良い被写体として祭の撮影を始め,「いい写真を撮るためには祭の理解が重要」と思い特に山笠についての理解を深めていくことで山笠自体を好きになり,そして研究対象にもしたくなり現在に至っております。
 そのような流れなので,初期は「ズームレンズなどを用いてドラマティックな場面を作品的に撮影」することを目指していたのですが,次第に「どこでもトリミングして研究資料に使えるように引きで全体を撮る」ようになってきていて,つい最近では「毎年代わり映えのないような写真を撮り続けながら“イレギュラー”が起きるのを待ってはいる」ような単調な撮影になってきています。
 
 上記の「祭をドラマティックに作品として撮る方法」についてはプロカメラマンによる解説書などが多く出ていると思うのですが,「研究資料として記録するために撮影する」方法にはどのような方法があるのか調べてみたいなあと思っていたところ,今日見つけた論文に少しそれに関連した内容があるのに気づきました。
 
斉藤利彦 2017 竹田聴洲の祇園祭調査と写真フィルム (史学科創立50周年記念号). 歴史学部論集(佛教大学歴史学部), 7, 23 – 35.

 論文の内容は,竹田聴洲先生が同志社大学人文科学研究所の共同研究の一環として昭和35年度の京都祇園祭の撮影を行ったことに関して記載されますが,その試行錯誤の様が当時のカメラの性能や技術の限界などを如実に示していてプロジェクトXをみるような感じで読めるのでぜひ本文を読んでほしいと思いますが,以下,面白い所を順に引用していきます。

一昨年来、念仏狂言等の調査に用いた録音・映画の方法による記録は経費・技術の両面で限界のあることが明かになったのと、将来の出版などを考慮して、カラースライド一式によることを決定。

 昭和32年ですから映画などの動画も技術として存在していましたが経費の問題もありポジフィルムでの撮影に絞ったことが書かれていて,当時の同志社なら研究費とかいっぱいあったように思えたのですがやはり研究費の問題はいつの時代もついてまわるのだなと思いました。
そして最初の「ポジフィルムで全部撮影」という方針もいろいろな要因でどんどん崩れていく様子を以下に引用していきます。

 ところが一〇日、同月一日・二日撮影の吉符入り・くじ取式などのフィルム現像が清水氏宛に届いたが、「スポットライトを使用し、また助手のストロボ使用未熟のため、画像おしなべて清水氏にも意外に不出来であった。
 スポットライト使用・助手のストロボ使用未熟などから、露光などが十分ではないことが不出来の原因であろうと推察できるが、このことは、伝存する写真と左掲史料からも、現装備下のポジカラーとしては避難い技術的限界によるものらしく、この欠点克服のためには、ネガカラーにするか(感度はポジの三倍、但し印刷には不向)、アメリカ製コダツクの精品にするか(価格約三倍、また入手に若干の時日を要す)、光源を数倍にするか(機動力を著しく殺がれ、随時借用する一般家庭の電源を破壊する恐れあり)など幾つかの方法が考えられるが、皆夫々に制約あり。と述べられていることからもうかがえる。
 現状では、露光とポジカラーの被写界深度の技術的問題は克服できないので、清水氏は①ネガカラーへの転換②コダック社製のポジカラーにするか③光源を数倍にするかとの案を提示した。

 今ではISOうん十万とかの超高感度になって手振れ補正もついて暗い所で絞って被写界深度確保してパンフォーカスで撮影することも簡単になってきましたが,それが可能になったのってなんだかんだで2010年以降くらいなのではないかなと思っています。・
 ちなみに今調べたらこのころはキヤノンでは「キャノネット」が出た頃なのですね~。

 そうした技術的な限界に関する記述以外にも,撮影者の体力や撮影の方法などに関する試行錯誤についても記述があります。

 翌日は全休とし、明けて一九日より後祭りの撮影を開始した。前祭り撮影で予算が超過していることから、竹田は三品と協議し、三品より約三万円で立案するように指示され、おおよそ二万円、フィルム十本ほどと見積もり、二一日より撮影を再開していくが、竹田は心身ともに疲労が蓄積していることから「祇園祭調査も長期に亙り少しダレ気味」と告白している。
 それが反映してか、後祭りの宵山である二三日、南観音山の神主祓いの撮影をうっかり失念してしまい「幾らも撮り得たものをと地団駄踏んでも、そこそ「後の祭」」と悔しがっている。
 この日の夜、同町の暴れ観音の撮影を行い、「祇園祭の構造の複雑さに再び思を新に」し、その後、四条御旅所で日和神楽と芸妓の無言詣りを選写した。
 二四日、後祭りの巡行を迎え、「月初以来の採訪もいよいよ大詰めと、朝八時に調査団は集合、三条通の日本銀行前に脚立を立て、長谷川松寿堂前のくじ改めを鯉山のケースで組写真を造ること、前の祭の苦い経験に凝り、カメラを一個所に固定して巡行の山全景を確実に収録することなど手筈をきめる。
 というような定点撮影の方針で、巡行の山を撮影した。この撮影方針は前祭りが山鉾の巡行を追いかけるかたちをとった反省によるものであった。

 やはり祭についていって撮影すると疲労困憊してそのせいで撮り忘れ等がでるというのはよくある経験だなあと。そして,そうした失敗から動き回って取るのではなく定点撮影をすることを選ぶようになったというのも,なんというか「研究のための資料記録にはその方法の方が良い」という学びを体得していってる過程が分かるようで面白かったです。
 
 とここまで見ていて,「では現代の祭研究では360度カメラやモーションキャプチャやドローン撮影などを駆使していろんなことできそうだなあ。」と思ったのですが,そうした行為について考えてしまうことも書かれてあったので最後にそれを引用します。

さて翌朝、竹田は清水氏持参の超望遠レンズにて、各鉾の鉾頭・天王・赫熊を撮って廻るが、このことを「科学と涜神の接点スレスレ」だと感じている。こういった発言は、竹田の研究者としての良心のあらわれともいえよう。

 撮影や研究が「涜神」になってしまわないようにという視点は今後どれだけ技術が発展して持ち続けたい態度であるなあと思いました。

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