20240519 古文漢文は入試に不要!と主張してみる
※私は古文漢文についても入試制度についてもど素人なので昔自分が受けた古文漢文の授業や入試に関する浅い知識から適当に書いた内容なので誤解や間違いが多数あるものと思って読んでください。
このNOTEは「祭心理学」で、祭に関する古い文献を読もうとしても読めなくて「くずし字読めたらな~」とか「古文漢文の文法や単語の知識がもっとあればいいのに!」と思うことが多いです。そのため、古文漢文を学ぶ機会は増えた方がよいと思いますし、今後も中学高校で古文漢文の授業は存続してもらいたいとは思っています。
しかし、現状の「古文漢文の入試問題」はある意味生徒の古文漢文能力の向上に役に立たないどころか邪魔をしている可能性も存在するのではないかと言う思いもあり、現在の形式からの大幅な変更がないのであれば、むしろなくなってもらった方がよいのではと思っています。
以下、現状の古文漢文の入試問題について私が思う問題点を挙げていきたいと思います。まずは、専門家の意見をみてみます。
【書誌情報】
印南志帆 2022 「古文・漢文不要論争」が毎年こうも白熱する背景. -「入試に役立つ」と答える国語教員の無防備さ. 東洋経済ONLINE
明星大学の勝又基教授へのインタビューをもとにまとめられた上記の記事では、従来の古典教育の問題点として
1.文法をやりすぎている
2.名作鑑賞に終始しており、こと平安文学を重視しすぎている
の2点が挙げられていました。
1.文法をやりすぎている
「文法をやりすぎている」については、「古典の全文ではなくほんの一部分だけを取り上げてそのわずかな部分を全部品詞分解して読み解く」ことが授業でも入試問題でも多いと思います。そして、「ここは二重敬語が使われているからこの主語は天皇!」みたいな、切り取られた一部分から読み取るのは困難でも全体を読んで流れをつかんでいたら容易にわかるようなことを文法だけで読み取らせようという問題が多いような気がします。
このような勉強の仕方では、古典作品の持つ全体的な内容のすばらしさを享受することができず、苦労してこと細やかに品詞分解して読み解いた文章の内容は記憶に残らず「古典を読むことで教養がみにつく」ようなことには程遠くなると思われます。
2.名作鑑賞に終始しており、こと平安文学を重視しすぎている
この、「名作鑑賞に終始」というのは上で書いたように「文法ばかりみることで鑑賞が阻害されている」と私は思っているので鑑賞に終始できていないと思いますが、平安文学を重視しすぎているというのはそうなのだろうなあと思います。
なのに、私は古典については全く知らないので嘘かもしれませんが、平安文学を楽しむにはさまざまな和歌を知っていることが重要だと思うのですが、そのような知識の豊かさが有効に働くような問題が出されることはほとんどないような気がします。むしろ、源氏物語などの有名な作品から誰も読まないようなマイナーな部分を持ってきて、文章を読まず一般的な源氏物語に関するふわっとした知識で解くと間違えるような出題がなされることが多いようなイメージをもっています。
でもこれってある意味「パロディの元ネタ知らないまま解釈させられる」とか「原作の知識なしに二次創作のみ読んで問題に答えさせられる」といった感じに近い行為であり、その作品のパロディや二次創作としての存在価値をそぎ落とすような読みを強制させているような気がします。
また、既有スキーマやスクリプトを援用しながら「文脈にしたがって読む」という古典現代関わらず文学作品を読む際の王道の読み方がまったく通用できないようにされている意味で意地悪だと思いますし、一般的な古典鑑賞という営みから全く離れた生態学的妥当性に欠ける能力測定になっていて、正直なところ非常に不毛な状況が古文漢文の試験では延々と繰り返されているのではと思います。
では、なぜこうしたことが起きるかというと、それは古文漢文の問題では特に「初見主義」が重視されていて、「一般の受験生が読んだことのない文章を始めて読ませることで既有知識の影響を受けない真の文法力の肯定を測定したい」という姿勢が強いのだと思います。
しかし、「読むべき価値のある部分は長い歴史の中で多くの人に読まれてきたから既に読んでいることが多い」ことより、「これまでの長い歴史の中であまり読まれず注目されなかった場所は読むべき価値のない場所である」ことも言えると思います。そのため、「受験生が読んだことのない文章」で入試問題を作るというのは「文章として魅力や内容がない部分を無理やり文法だけで読む」ことを避けられず、文章を楽しむ力の高い受験生にとっては逆にハンデになるような気がします。
そんなことを思えば、昔の同級生で京大の理系に進んだ賢い人が、現代文は苦手だったので「古文と漢文なら知識で解けるからそっちを大事にする」と言っていたのを思い出しましたが、現状の入試の古文漢文に関していえば、現代文が苦手な受験生が国語で点を取るために準備されたサービス問題のように思えなくもないかなと。
既有の知識が回答に関わりやすい科目として地理や歴史などがあると思いますが、それらの科目で「既にある知識の影響を取り除くため、実際には存在しない架空の国のデータを提示してそこから読み取らせる」ことはありはすれどもそこまで頻繁ではないと思います。しかし、そのような出題が古文漢文ではよく出されているように思えます。これは私の古文漢文に関する知識が少なすぎるからそう思うだけで専門家から見れば違うのでしょうか。
自分の経験を振り返ると、細かい理解などなくてもリズムの良さを頼りに文章を丸暗記させられた枕草子や方丈記や土佐日記の序文、かるた大会に勝つためにその当時は全首覚えた百人一首、文法はわからないけど内容で覚えている徒然草などの知識の内容が今でも残っていて、「月のころはさらなり~」とか思ったりしますが、これはやはり中学や高校のころに「丸暗記」をさせてもらえたからこそであり、品詞分解して内容を正確に理解したことはまるで関係がないだろうなあと思います。
そのため、古文漢文に関してはそのような「原典の丸暗記」や「現代語訳によるさまざまな古典に幅広くふれる」教育を学校で行い、さまざまな古典に触れてそれを楽しむことができた人が答えやすくなるような問題を出題するようになってほしいなあと個人的には思います。
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