見出し画像

20240820 退屈する才能

 電車に乗るとおそらく飛行機で盆休みの帰省から戻ってきて電車に乗り換えた母と娘二人の会話が聞こえてきました。小学校低学年くらいの女の子がスマホで動画を見せるようにお願いするも、お母さんが「電池が切れているから無理」と断ります。
 すると持っていたANAの飛行機の風船で娘さんがお母さんを叩くのですが、それがバコバコ結構大きな音をたててお母さんが痛そうなので心配しながらみていると、「面白くない。猫さんみないと面白くない。なんでみれないの。おかしい。」みたいなことを泣くような声をあげてお母さんに訴え続けておりました。今の育児ではYouTubeとかの動画を見せるのは必須だと思いますが、やはりそうした動画を視て刺ばかりだと電車での移動などは退屈に思うことが多いのだろうなあと。

 スマホが出現したことによる変化としてよく「退屈することがなくなった」ということがあげられて、それは確かに私もそうだと思います。しかしそれはまた「スマホがないとものすごく退屈を感じる人も増えた」ことになるのだろうと思います。
 スマホのない時代に生まれた人間は、「スマホがなかった時代の退屈な時間の楽しみ方」が存在するのでまだ大丈夫でしょうが、生まれた時からスマホがあった世代にとってスマホがないというのは「当たり前のようにある酸素がなくて息ができないような苦しさ」なんだろうなあと。

 まあでも正直自分自身を振り返ると昔もそんなに退屈を感じた記憶がないのも確かだなあと。
 昔は釣りが好きだったのでよく父親に海釣りに連れて行ってもらっていました。夜釣りに連れて行ってもらえることはありませんでしたが朝まづめを狙って夜明け前の漁港に行き、父親は防波堤の外側のテトラポッドでチヌなどを狙い、私は防波堤内側で根魚や小鯛などを釣っていた記憶があります。
 小学校高学年になると父親と一緒に遊ぶのは恥ずかしくなったので釣りに連れて行ってもらうのはやめた記憶があるので、親と一緒に釣りに行っていたのは小学4年くらいまででしたが、漁港の防波堤に子ども一人でほっておかれても、釣りをしたり防波堤から見える生き物見て楽しんだりと退屈することは全然なかったなあと。今こんなことをしていると子どもの放置で虐待とか扱われてしまいそうですが昔はこうした放置はよくあることでそれが自由な探索行動につながっていたように思うのですがどうなのかなあと。
 家でも土曜の午前に授業が終わったあとは小学4年くらいからは自分でインスタントラーメン作って食べて吉本新喜劇みたくらいで後は友達と遊んだり家で本を読んだりしていて退屈に思った記憶はないなあと。

 そういう意味では退屈を体験しやすい人としにくい人という差はあって、当然パーソナリティは関連しそうですが認知も関係しそうだなと思いCiNiiで「退屈 認知」を検索するとパッと目を奪われたのは以下の文献でした。

【書誌情報】
木下尚洋・栗原拓也・山口竜之介・北原鉄朗 2015 カラオケを盛り上げるためのタンバリン演奏支援システム. 第77回全国大会講演論文集, 2015(1), 1, 405 – 406.

 確かにカラオケって今の時代に退屈を感じやすい遊びだなあと。一緒に歌って構わない人なら一緒に歌いますが、それを邪魔されたように感じる人が相手だと歌うことはできず、でもあからさまにスマホ見たりしたら失礼…というときはタンバリンでリズムを一緒に取るのが一番良い気がします。カラオケにタンバリンやマラカスが何故か絶対置かれていることに疑問を感じませんでしたが、待つ人の退屈解消アイテムと説明されて膝を打った気がしました。

 ということでこのNOTE書いていたらあっという間に乗車時間が終わり降りる時間になってしまいました。本当にスマホがあれば電車内でも退屈する暇もないよなあと。ある意味今では退屈するための才能が必要となる時代なのだろうなと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?