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20230522 祭と笑い ~『祭礼の笑い』より

 今日も今日とて祭に関する文献を探していると…『祭礼の笑い』というダイレクトに祭心理学に関連しそうなタイトルの論文をみつけたのでさっそく読んでみることに。
 
浦 和男 2015 祭礼の笑い. 笑い学研究, 22, 5 – 18.

 論文のタイトルが短く抽象度が高い場合,その内容は包括的で内容が盛りだくさんになりがちですが,この論文もその通りで,『古事記』や『日本書紀』などから笑いの歴史を紐解き,日本全国から笑いが存在する祭を収集してそれを分類するという非常に有意義な情報が盛りだくさんで私が容易にまとめることができません。そのため,論文で挙げられた民俗行事の類型と代表例を挙げるにとどめ,詳しい内容は論文本文を読んでいただきたいと思います。

タイプA「純粋笑い神事」。笑いそのものを神々に奉納する。民俗行事の一番の目的は、神霊からの超自然的な力による恩恵を得ることにあり、笑いの行為によって神霊を鼓舞させ、その力を発揮させる。神霊に供え物をするように 、笑いを供え物として奉納する民俗行事が、このタイプ Aとなる。「笑い講」(山口県防府市小俣、12月)、「お笑い神事(注 連 縄 掛 神 事)」(大阪府東大阪市出雲井町、枚岡神社、12月)、「笑い祭」(和歌山県日高郡日高川町、丹生神社 、10月他)など。

タイプB「芸能系笑い行事」。笑いを志向する芸能的要素が濃厚である。笑わせる者と笑わせられる者が同時に存在し、おかしみの感情を伴って笑いが生じる。この行事では、神霊を歓待し、神霊とともに笑うことが重要になる。 須藤功は「田の神んさあと笑う日」と表現している(須藤 2000:79 )。行事の日は、まさに神霊と笑う日となる。「佐喜浜 にわか」(高知県室戸市佐喜浜町、10月),「芋くらべ祭」(滋賀県蒲生郡日野町、熊野神社、9月),「一人角力」(愛媛県宇和島市大三島町、大山祇神社、旧暦5月他)など。

タイプ C「性神事行事」。笑いそのものを志向していないが、性的要素が濃厚で、結果的に笑いが生じる。神事全体が性的な要素を持つものと、全体の流れのなかで性的な要素を持つ神事が執り行われるものがある。

 こちらの具体例は論文中に多数存在し論考も豊富なので各自でご確認ください。
 

タイプD「派生的笑い行事」。全体のシークエンスの一部で必ず意図せざる笑いが生じる。行事全体としては笑いを意図していないが、行事の進行の各所で生じるおかしみによって、突然笑いを起こす。行事に参列する者には、ある場面で思いがけない状況が発生することで意図しないおかしみが生じ、笑いが生じるのである。その笑いが生じる場面は、演じる側は笑いが生じることを予期しているであろうし、全体の流れのなかで、そこに笑いが生じるよう、仕掛けが施されていることも考えられる。このタイプの代表例は、通称「子出来おんだ」(奈良県磯城郡川西町保田、六懸神社、2 月)である。

タイプE「その他」。笑いを起こすことをまったく意図していないし、観る側に予期せ ぬ笑いを生じさせる仕掛けもない。それにもかかわらず、笑いが生じる。演じ手がまじめに演じれば演じるほど、そのしぐさや発話に、笑ってしまう。「雷 (いかずち)の大般若」(東京都江戸川区西葛西、2月)や「お札まき」(神奈川県横浜市戸塚区戸塚町、八坂神社、7 月)など。

 どれも非常に見てみたい祭りばかりでしたのでまた実際に紹介されていた祭をみることで色々と考えてみたいなあと。
 
 最後に,論文の内容そのものとは関係がないですが,読んでいて興味深かったのが,「注の箇所で査読者へのコメントが自由にフランクになされている。」ことでした。心理学でも,査読者からの指摘に対する反論などが注釈に書かれることもありますが,それらは「超えるべき関門」と「その壁をいかに論理的に乗り越えたり叩き壊したか」が重苦しい感じで書かれることが多い気がします。そのため,注が多い論文は「苦労されたのだろうなあ…」という感じで気の毒さが先に来る気がします。
 しかしこの論文での査読者へのコメントはそのような感じではなく,査読者と筆者が対等で,査読者のコメントに従うかどうかが掲載の可否に直結するというよりかは,新たな議論の提示がなされるような働きがメインのような気がしました。このあたり,いろんな学会での査読の雰囲気などを比較してみたいなあとは昔から思っておりますがなかなか難しいのだろうなあとは思います。

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