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『Dancing☆Star プリキュア』The Stageを観て考えたことまとめ


はじめに

  • この記事を「警戒しつつ」読もうとしている方は、以下お読みいただくと読むかどうか・地雷観点があるかどうかの判断になるかも。

  • 『Dancing☆Starプリキュア』The Stage(以降、公式略称の「ぼくプリ」と呼びます)が、「プリキュアシリーズの1つとして、全員男性キャスト(キャラクター)を用いて、舞台化された作品」ということは大前提知っているとして話します。

今回、関係ありそうな筆者のバックグラウンド

無意識の視点の偏りの可能性を考慮して、簡単に筆者のこの舞台に関係していそうなバックグラウンドを書いておきます。

  • 演劇、2.5次元舞台は10年くらい(ジャンルはその時々だが)観続けている。根幹と今のメインの興味対象はテニミュ

  • この舞台はヒプステ初代帝統役の滝澤さん目当てでチケットを取った(1回だけ行くつもりが気づいたら3回行ってた)

  • プリキュア自体の履修歴は以下

    • 5より前の世代:キャラだけ知っていて話は見てない

    • 5~スマイルまで:話を見た。スイートを一番がっつり見た

    • それ以降:タイトルとテーマだけなんとなく知っている

記事の切り口

観劇直後の脳直感想を振り返って改めて考えたり、インタビューやファンダム反応を調べてさらに考えた結果気づいたこと、まとめて残したいことを以下の切り口でつらつら話します。各切り口続きものではなくバラバラなので、気になる部分だけ読んでも話はわかる、はず。

  • テニミュにも通じる「築いた文化の破壊と再構築」

  • あらためて、2次元を舞台化するときの「魔法」の仕掛けについて考える

  • 「ほさかようさん×テニミュ」への勝手な期待

※基本テニミュが今の思考のベースなので何かにつけてテニミュの話に絡めてます

テニミュにも通じる「築いた文化の破壊と再構築」

 まずこの作品は結構物議を醸していたそうです。(自分は当時居たファンダムがかぶっていなかったのであくまで「らしい」ですが)主にこちらの記事を参考に、言われていたとされる批判的反応を取り上げると「プリキュアシリーズのタイトルを冠して、コンセプトを使って、わざわざオリジナルの男性キャラで舞台化する必要ある?」です。

 「この意見自体の良し悪しを語ったり、反論する意図はない」というのは前提に、私自身は、この点に関して「その必要性がめちゃくちゃあったのでは」と思います。理由は3つ。

  • プリキュアの発端は「その性別らしさ」への問題提起

  • プリキュアは20年近く続き、「プリキュアらしさ」が形成された

  • 本作は「プリキュアらしさ」への新たな問題提起である

プリキュアの発端は「その性別らしさ」への問題提起

 まずこの舞台企画の発端はプリキュアの生みの親とも言われる、プロデューサー鷲尾天さんの「言い出しっぺ」だそうです。というのも、そもそもプリキュアシリーズが立ち上がった一番の起源はときのテーマは「固定概念を壊す」で、さらに掘るとこれは鷲尾さん自身が幼少期の経験などから「女の子だって暴れたい」というアイデアが浮かんだから……とのこと。
 批判文脈の中では、「女の子だって暴れたい…がテーマなのに、男の子メインはテーマから逸れている」という意見もあったそうですが、そもそものテーマとしてのフォーカスは「女の子」というより「○○らしさ」全体だったのでは、というのが筆者の推察です。あくまで当時、プリキュアが立ち上がった時代は、暴れるのは男の子、女の子の所に男の子が助けに来るのが定番だったので、その時掲げられたより具体的なテーマとして「女の子だって暴れたい」があったに過ぎない。と。

プリキュアは20年近く続き、「プリキュアらしさ」が形成された

 そうして始まったプリキュアは今や20年も続いているそうです。(ここでテニミュにピンときた方もいらっしゃるかと思いますがこの話はもう少し後で)
 20年も、これほどの根強い人気でコンテンツが続くと、ある程度「そのコンテンツらしさ」ができるというのが目下の私の思考の大テーマです。(ここは何か権威ある出典、文化構築の平均期間とかを説いたものはないかと調べましたが力不足で見つからず。ご存じの方教えてください)
 そうすると、立ち上げ時は「戦うのはいつだって男の子」だった通念と並走する形で、プリキュアが20年続いたおかげで「でも、女の子だって戦う」という新たな通念が出来上がったと考えられます。立ち上げ時の狙い通り問題提起が浸透したとも言える。

本作は「プリキュアらしさ」への新たな問題提起である

 本作のテーマは「男子高校生がプリキュア」。これは「女の子だってプリキュアとして戦う」という、通念化した「らしさ」のうち、「プリキュアは女の子」という部分に、新たに一石を投じに来ています。
 もちろんこれは本作ぼくプリ特有ではなく、本編の方にもキュアアンフィニとかキュアウィングとか、男性プリキュアは近年徐々に出てきました。(これ自体のジェンダー学的議論はここでは特にしませんが、「プリキュアらしさへの問題提起という文脈では共通するテーマを感じる」とだけ言っておきます。)ただ、あくまで彼らはマイノリティ的存在で、シリーズ中のプリキュアのほとんどはあくまで女の子です。それに対して、この作品は全員男の子。しっかりとシリーズ全体のテーマとして強く「男の子だってプリキュア(女の子だって暴れたい、の2023年アップデート版)」を打ち出してきたという点が一番自分の注目したポイントです。すでに本編に男の子のプリキュアがいるのにあえてオリキャラなのはなぜ?という意見も、自分はこの「大テーマとして打ち出そうとしたから」という点で説明が着くのかな、と思います。
※そもそものイケメン若手俳優ビジネスの収益性についてはあえて割愛します。まあ普通にこのポイントも全然ある(というか大きく影響している)のは理解していますが、そことは別の所にあるクリエイター陣の意図やテーマ性があくまで興味・議論対象です。「結局若手俳優ビジネスの金もうけじゃん」「誕生秘話とかも全部その理由付けじゃん」の気持ちが強い方は、すべての議論が腑に落ちないと思うのでこの辺で記事を切ることをお勧めします。

 理由3つを取り上げて既に長々と話しましたが、つまり「ぼくプリ」は、

  1. まず「暴れる(ヒーローとして戦う)のは男の子」の時代に、それへの問題提起として「女の子だって暴れたい」を掲げてプリキュアが立ち上げられた

  2. そのテーマの元コンテンツが20年反映し、「女の子もプリキュアとして暴れられる」という通念が新たに築かれた

  3. 今度は、それに対して「男の子だってプリキュアになれる」という更なる問題提起を掲げて「ぼくプリ」を生み出した

こういう経緯・ねらいがあるのでは、と考えられます。
(というかこれはもうこのインタビューでほぼ語られているも同然かも)

……と、ここまでがぼくプリ自体の挑戦の面白さ。これを踏まえて、私が考えたのは「これって、テニミュ4thも同じかも」です。

閑話休題(完全に余談)
作品の大テーマだけじゃなくこの作品は細やかなジェンダー配慮が見られたましたね。例えば
・舞台となる学校が共学なのか男子校なのか明言されない
・ささな(作品見てない方は跡部とか及川だと思ってください)にキャアキャアはしゃぐミーハー生徒が全員男の子
・ささなは頻繁に告白されたり振ったりだれかを意図して魅了しにかかるキャラクターだが、その相手の性別を女とも男とも明言しない
・プリキュアに抜擢されて戸惑う楽も「俺がプリキュア!?だって俺、高校生なのに……」と言う。「だって俺、男なのに……」ではない。
などなど。これはミクロな点でのジェンダーの話ですが観ていて丁寧だなーと思ったし、規範に対する問題提起の姿勢が一貫してますね。

ていうか書いてて思ったけど「Dancing Star(ダンシングスター)」って「男子」に掛かってるんですか!?!?今更すぎる。粋ダジャレ♪

なんでテニミュ4thと同じ?

 これ本当はこっちを先に記事としてまとめたほうが良いんですけど、端的に言うと私個人の意見では「テニミュ4thも、今までの20年のテニミュの歩みで築いてきた テニミュらしさ を破壊して再構築して、新たな挑戦をしているシーズンだから」です。
 再三、ここは改めて別記事で書きたいんですが、破壊として思い当たる要素をざーーっと列挙しておくと

  • 演出脚本はじめクリエイター陣の一新。

  • 演出内容も大幅に今までのテニミュから変化した(自分は関東立海から戻ったヴィランのオタクなのでここは伝聞ですが)

    • 今まで曲として歌っていたシーンがアクトになる

    • 今までなかったシーンや曲が追加になる

    • セットが大幅に変わる

    • 登場キャラクターが増える

    • キャスティング方針が変わる(過去キャスト再起用、卒業ミュキャスの新テニ続投、新テニからの逆輸入、テニミュボーイズのネームド転身etc)

などなど。絶対に抜け漏れがあると思いますがパッと思いつく限りでもこれだけ「今までと違う」ことをやっています。ぶっちゃけそのせいで「今まで好きだったものと違う」という体験からコンテンツを離れた方もいますし、かくいう筆者もこのうわさを聞いて気持ちが離れていた時期があったりします。
 ただ、そのあたりは一旦さておき、コンテンツの試みとしては「テニミュも20年続いて、なにやらテニミュらしさ、文化みたいなものができてきた。ここいらで、これを色々変えてみて、新たにコンテンツとして成長しよう」という意図があるのでは?と、自分は仮説を持ってます。
 これを踏まえると、約20年間自分たち自身が築いたらしさを、自分自身で壊しにかかって新たなステージに向かうという点で、ぼくプリの試みと4thの試みに強い共通点を感じました。破壊と再構築という意味合いで、またもプリキュア立ち上げ人、そしてぼくプリスーパーバイザーの鷲尾さんの言葉を引用しておきます。

”ヒンズー教のシヴァ神の破壊は、創造を生み出すための破壊です。そういう発想なのかもしれません。破壊して、再構築していく。再構築するには、根っこがきちんとなければできない。根源となる素材を使って再構築していきます。その素材を考え、突き詰めて考えていけば、いろいろなことに挑戦してもプリキュアとして通用すると考えています”

プリキュア:“創造と破壊”の歴史から生まれた男子プリキュア舞台 鷲尾Pが語る誕生の裏側

 ここから再構築されていくのは何なのか。ぼくプリは(終わり方的に、かなり、続く気満々で)1作目が終わった段階ですし、テニミュ4thもまだ折り返したばかりです。今後の成長がどちらも楽しみですね、というふわっとした感想でこの章は終わりです。
 ちなみに、そういう意味ではヒプステに関しても考えていることとして「ヒプステはこの潮流に対して”文化構築が浅い段階で破壊・再構築を試みる”という、さらに新たなチャレンジをしている」という仮説があるのですが、これもNE上演が終わったあたりで改めて記事にしたい(予定)です。

あらためて、2次元を舞台化するときの「魔法」の仕掛けについて考える

 これは演出の話。ぼくプリは「2.5次元舞台を真剣に楽しく見るための仕掛け」について再考するきっかけになりました。それは虚構を現実化するために必要な「演出の仕掛け(=魔法、的なもの)」は、歌+ダンスだけじゃないという点です。

 そもそも自分は「虚構を現実に持ってきて、それを観客に没入させるには、逆にオーバーな嘘っぽさが仕掛けとして必要」という考えを持っていました。(ユリイカに寄稿されていた矢内先生の文章がベースとなってます)
 なので、2.5次元舞台、特に原作の現実味のなさが強いもの(ファンタジーとか。自分的にはテニプリもここに入ります)には「虚構と現実ののりしろのために、歌+ダンスは必須」と思ってました。
(ハイステや劇キューは割と歌のないストプレですが、これは原作も特に特殊な必殺技がないから成立していた、という個人的な考察)

 すると当然ぼくプリを見るときも、「ファンタジーだし、絶対歌うだろう」と予想します。でも実際は(オープニング・エンディングだけ歌い踊ったけど)本編で「歌いながら芝居してシーンをこなす」ところがなかったんですよね。その代わり、そもそも「ダンス部の子たちがプリキュアになる」というストーリーなので、「(あくまで部活の一環として)ダンスする」という演出が非常に多かった。
 たぶんこの「ダンスするシーンが多い(そして題材的にそこに説得力がちゃんとある)」ことが、今回のぼくプリにおいては「虚構を現実化するために必要な仕掛け」の部分を担っていた。つまり、別に虚構現実化の仕掛けは「歌+ダンス」に限らない。これが自分的には新たな視点でした。結果、私は全く違和感なく没入できましたし。

※お察しの通りこの項目からは結構話が短く、より雑、かつ浅くなっていきます。

「ほさかようさん×テニミュ」への勝手な期待

 ここから「ぼくプリ」自体の内容は無関係になります。ぼくプリを見て、派生して思ったテニミュの話。そして、かなり局所的かつ勝手すぎる期待失礼します。
 端的に言うと今回のぼくプリで脚本・演出を手掛けたほさかようさん、テニミュの次シーズンはほさかさんが担当したら面白いんじゃないか?という話です。4th終わってすらないし、5thやるとも決まってないし、その時演出が変わるとも言われてないので、完全にIFすぎる話です。決して今代シーズンの否定・不満ではなく「そうなると面白い・あたらしいけどテニミュっぽさもある、楽しいものが見られるかも」という話です。理由を順を追って話します。

まず、ほさかさんはファンタジー舞台が上手いと思う
 ご自身の演劇ユニット『空想組曲』も(観たことはないのですが)ファンタジーものだそう。さらに、魔法使いの約束の舞台化、今作ぼくプリの舞台化など、原作の虚構性(非現実性)が強いものの舞台化を手掛けてきている。
 ぼくプリという虚構の現実化のすごさ、手法の個人的な新しさについては前項で書き連ねた通り。まほステは映像だけ一通り見ましたが、ぼくプリと同じような舞台機構やアンサンブルダンサーを駆使して、これも見事にあの世界観を具現化しているという印象です。

少なくとも今築かれた文脈として、テニミュは個人的には「ファンタジー舞台」だと思う
 これはあくまで「今の20年続いてきた延長線のテニミュは、ファンタジー」というものです。原作テニプリがファンタジーと断定するつもりはありません。(まあファンタジーなところがかなり多いですが、実際のところ実はガッツリテニスをやってたりするので。ドイツ戦の幸村VS手塚とか。)
 原作自体は、それこそ「魔法」などあきらかな非現実がテーマじゃない限り、解釈によっては「虚構<現実」「虚構>現実」どちらにチューニングしても舞台化が成立しうると最近は思っています。
 プロジェクションマッピング技術を駆使したハイキューの舞台は、(生で見たことがない・映像も春高全国中心に掻い摘んでしか見ていないながらに)割と絵面が派手めで「虚構>現実」という印象でした。ですがこのハイステが全部終わった後、改めて仕切りなおした劇団ハイキュー(須賀さん演出のやつ)は、生で旗揚げ公演を観に行った時「めちゃくちゃ愚直な小劇場ストプレっぽく仕上げられていて、これもありじゃん」と思いました。なので前述の「実は愚直にテニスしている面もある」「根本はスポーツものである」テニプリも、切り口やテーマを変えると虚構<現実になるとは思います。
 ただ、前置きが長くなりすぎてしまいましたが、少なくともここまで続いてきている既存のテニミュは「虚構>現実」が強いと思います。歌+ダンスを駆使したミュージカル形式で、必殺技を派手に演出する。関東立海D1曲(空耳しか知らない人に言い換えると「たこ焼きライス」の曲)は、演者がコート上を入り乱れながら踊り狂ったり入れ替わったりマジックしたりと、かなり虚構性が強いです。

いつか4thが完結後、「5thシーズン」として銘打ってまたシリーズを重ねるとしたら、さすがにこの「ファンタジー性(虚構性)」は保たれる思う
  大前提、4th完結後(つまり、原作テニプリの物語の上演が最終回まですべて終わった後)、また原作1話から舞台化をし直す「5thシーズン」が始まるとします(そうあってくれ)。で、だとしたらこの虚構性はさすがに保たれる気がしています。なぜなら、5thである時点で、それは必然的に1st~4thの20数年の続きという位置づけになるからです。
 もちろん前述のハイステ→劇キューのような全く違うものを「5thシーズン」と銘打ってくる可能性も捨てきれないです。ただ、劇キューも「ハイパープロジェクション演劇ハイキュー」と名前を冠したものを、ストプレに方向転換するために、「劇団ハイキュー」と再命名しています。
 テニミュも「ミュージカル テニスの王子様」なので、その「テニミュ」の5thシーズン、ならば当たり前に「ミュージカル」要素は消えないでしょう。そのあたりから「虚構性は保たれる」と考えています。

「4thは破壊・再構築論」をベースに、もう今後テニミュはシーズンごとに新チャレンジをやってくるんじゃないかと思う

 1つめの項目でガッツリこの話をしましたが、改めて言っておくと私は「テニミュ4thは、今までの20年のテニミュの歩みで築いてきた テニミュらしさ を破壊して再構築して、新たな挑戦をしているシーズンである」という仮説を持っています。この考えから、「今後は破壊・再構築を繰り返すために、また5thでも新チャレンジをすると考えています。
 これで漸くこの章の本題なのですが、その一環として演出を変更するとしたら、ほさかさんが担当したらすっごく面白くて、新しくて、でもテニモンたちの「観たいテニミュ」も見られる舞台になるのでは。というのがこの章で言いたかったこと。
 前述の通りファンタジー(虚構)の現実化が上手いほさかさんと、虚構性の強いテニミュ、親和性が高いのでは。というのがすごく平たくした意見ですね。実際ほさかさんのインタビュー内にこんな発言がありました。

やっぱり、やったことのない作品やジャンルには憧れがあるので、いつかやってみたいと思っています。スポーツものとか、熱血な少年漫画系とか。

【2.5次元の舞台裏】リアルと幻想の融合を絶妙に描きだす演出家・ほさかよう 「人の神様を馬鹿にしない」という信念

 やってください。絶対面白いです。この章はその一言に尽きます。これはちょっと「現時点で持っている考えの記録(このnoteのメインテーマ)」であると同時に、「自分の中で、いつか当たったら嬉しいので予言の一種として残しといてみる」という意図もちょっとあります。もし違ったら全然笑ってください。願望です。

最後に雑記

 バラバラしましたがメインの話としては以上です。基本「観劇した作品フックの記事」ではこの記事のようにある程度テーマを区切ってまとめることを目的としているので、以下はそこからあぶれた・メインの話からは省いた考えをまとめておきます。
ぼくプリの作品体験にすごくすごく影響するストーリーのネタバレを含むので「まだ見ていないけどいつか新鮮な気持ちで観たい」人は飛ばしてください。この章より下には、作品ページのリンクとご意見フォームしかないです。ご意見フォームはこのnoteの筆者プロフィールページからも飛べます。)

プリキュアと2.5(およびその観客層)の親和性

 プリキュアって少なくともこの記事見る限り、視聴者層が比較的若年層女性寄りなんですね。男性の方が多いと思っていたので意外でした。2.5次元との親和性が実はもともと高かったのかもしれません。
 親和性という話では、そもそもプリキュアって「キャラの立った5名前後のチームで戦う」「それぞれのメンバーにテーマカラーがある」「カラーごとに、赤は元気青はクール、赤と青は幼馴染とかライバルとかで関係が深い」など、ある程度「お約束」がある。これって端的に言うと「女性向け作品(単語としてあまり好きじゃないのですがわかりやすさのために使いました。お許しください)」的側面結構強いですね。あとアイドルのメンバーカラー文化とかも近い。同じく若年層女性観客が圧倒的に多い2.5と親和性が高いな、と作品を観ていて思いました。

ぼくプリで描かれた「悪」は、「舞台だからこそ」の描写だったのでは
 これは全部のプリキュアシリーズを完走してるわけではないので、最近の原作もそうかもしれないのですが、ぼくプリは原作よりも、「悪役の正義」「悪役がそうなってしまった理由」がしっかり描かれていた気がしました。
 室井先生がああなってしまったのには(大人なら特に)やるせなくなってしまう挫折や負の感情があったり。パドドゥの衝撃のラストも、まだ匂わせしかないですがパドドゥなりの正義・目的・救いたいものがありそうです。これは個人的には、ぼくプリ来客層がニチアサのメインターゲット(お子様)よりも年代が上な所にあると思っていました。が、インタビュー読んでてそれとは別の、の面白そうな理由を見つけました。

もう一点、ダークな面をどこまで描くべきかという部分も打ち合わせを重ねています。やはり生身の人間が喋る言葉と、アニメーションでの彼女たちが発する言葉は響き方が違ってしまうので。舞台ではどうしても生々しさが出てしまうんですよね。彼らが立ち向かう悪意をどう描くべきかが、難しい。

『Dancing☆Starプリキュア』The Stage鷲尾天(スーパーバイザー)×ほさかよう(脚本・演出)対談インタビュー

 観客が大人だから、ではなく、「舞台というメディアそのものが、悪意を生々しく伝える可能性がある特性を持っているから」とのこと。確かに、と思いましたし、でも言われるまであまり意識したことがなかった観点でした。いつかこの「舞台というメディアが持つ特性」を何か別の思考で使うかもしれないので覚書。

終わりに

引用する事実・引用の仕方に問題・誤りがあった場合コメントかこちらのフォームよりご指摘ください。
 あと一応作品気になった方がいたらと思い、リンク。DVDは4月発売なのでまだ映像が見られる媒体がなく心苦しいのですが、予約・購入ページも貼っておきます。アフィリエイトリンクではないのでご安心ください。

 広報がいまだにバッキバキに動いてるので続編をすごく期待します。続編を見たらまた記事にしようと思います。最後まで読んでくださった方がいるのか不明ですが、いたら、ありがとうございます💓

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