見出し画像

作品としての「作者」への愛【のあんじーまつり『恥』上演に際して】

 「恥」は、1942年1月婦人画報に発表された短編小説である。全編を通じ書簡の形式をとり、その中で書き手である「和子」はその友人「菊子」に向けて大恥をかいた顛末を語る。精神的に安定し明るく透明感のある作品群が目立つ、太宰中期の作品である。

太宰治『恥』青空文庫より
 
 和子は菊子に対し、小説家である戸田とのエピソードを語る。彼女は作者と作品を混同し、新作小説の主人公のモデルは自分であると思い込む。戸田へ手紙を出し、自宅へと訪問した挙句、最終的には自分の勘違いをつきつけられることになる。
 
 和子は、自身の中に独自の「戸田」像を作り上げている。これは一般的に誤読と形容されるものだろう。戸田からの手紙をきっかけに、和子は彼と言葉を交わすことになる。作者の実態にふれることによって、「戸田」像は破壊されたように思われる。そのショックが恥へと駆り立てているようである。誤読がただされ、作者とテクストの間にある壁の存在を知り、自身の無知をひけらかし耐えきれず反発しているのかもしれない。
 しかし、「戸田」像が変化した、とも理解できる。戸田そのものに触れることによって、これまでとは異なる「戸田」が現れてくる。このとき、和子の中の「戸田」はひとつの作品、テクストであるともいえないか。物語の最後、和子はなお彼からの優しい慰めの手紙の存在を求め封筒の中を探す。彼女は、未だ自分だけの「戸田」を抱き続けているのである。和子は、「戸田」の執筆を助ける女性に、ミューズのような存在になることを最後まで諦めてはいないのではないか。
 このような誤読によって、和子と戸田との交流が始まったことに変わりはない。
 
 太宰治自身、作者と読者の関係性について思案し、また、読者の求める作者像を綿密に再現することに成功した人物であるともいえるだろう。
 太宰前期の名作「道化の華」では、作者と読者が直に出会うような表現がみられる。本作では作者がしばしば登場し、話の筋とは別にこちらへ語りかけてくる。「なに、君だって。」という本文中の一言にあるように、それは単なる自分語りではない。読者は、否が応でも太宰の存在を意識しなければならない。物語を紡ぐと同時に、作者は読者に自己の表現を委ねる。そこには作品を読者に預け自己をわかってほしいのだという甘えに似た信頼があるのではないだろうか(そう勘違いしてはいけないだろうか)。
 作品を読めば読むほど、自分の中に「太宰」を宿すほど、太宰治……津島修治は離れていくことになるかもしれない。それでも、そのなかで、作者が作品を通じ作り上げた「作者」を、一読者として解釈することを目指し続けられないか。

 和子は、戸田と出会うことによってテクストを変容させることができた。では、私たちはどうなのだろう。自己の「太宰」を抱きながら、津島に肉薄する方法はあるだろうか。演劇は、その手段たりえるか。
 太宰を愛するひとりとして、これからもそれを捕らえようともがくだろう。自分がミューズであると信じ込んで、恋のように駆け引きしていたい。
 


 のあんじーまつり #かるたdanzai演劇
『     恥     』
原作・太宰治
時 - 4月10日 15:00上板橋駅北口出発
       16:30終演
於 - 上板橋PARA
1000円+投げ銭
要予約 定員15名
(@noangie0804もしくはnoangie0804@gmail.comに名前と人数を明記しご連絡ください)


〈参考文献〉
 ・阿部則子、1994、「雑感・太宰治『恥』─参加する読者とは何か─」『論樹』119-123。
・小田桐弘子、2001、「『恥』を読む」、『太宰治研究』、和泉書院、113-126。
・何資宜、2011、「太宰治『恥』試論─〈愛読者〉と〈誤読者〉のあいだ」『現代文学史研究』54-62。
・佐々木啓一、1991、「『恥』-自閉のなかの告白の演戯」『太宰治論』129-153。
・鈴木雄史、1993、「太宰治『恥』の正しい誤読者」、『論樹』84-93。
・ロラン・バルト、1979、『物語の構造分析』(花輪光訳)、みすず書房、79-89。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?