佐川恭一『舞踏会』をよむ

 妻と娘との三人家族のわたしは、職場でも家庭でも孤立していき、限られた小遣いの中でわずかな喜びを見出す日々。強靭な精神を持つ妻に太刀打ちできないわたしは家出することで抵抗するが ・・・「愛の様式」
 苦手なドッジボールに誘われるまま参加したことをきっかけに、現実のぼくの心と体はどんどん乖離していく。十歳を目前にしたぼくはすべてを消し去ってしまおうと決意する ・・・「冷たい丘」
 この世界はしらふで生きていられる場所じゃない。勝者しか存在を許されない会場で、ぼくたちは倒れるまで下手なダンスを踊り続けるしかない ・・・「舞踏会」
など、「ことばと」掲載の表題作を含む5編を収録。

 これは私だという意識と、これは私ではない私であってはいけないという意識が混ざってまざっていく。共感とかいう安易なものに逃げてはいけない。登場する人々、彼らよりは自分のがましだと思うのと同じぐらい、彼らは自分だと思ってなぐさめのために読むのは愚かである気がする。他人の苦しみを完全に「わかる」ことなんかできないのだから。それでも限りなく自分に近づけて読んでいた......
 
 ふと太宰の「如是我聞」を思い出す。だが如是我聞は読者への優しさをはらんでいる、後に続くものへの優しさを。この本は違う。そもそも他人を見てはいない。振り上げた拳をおろすところはないし、振り上げたままにする筋力もなくてそのままへたり込んでしまうのが落ちの生活。その状態を描くことで(それも、どこかポップに)、だれもなにも救わないままにしている。自虐小説、と帯に書かれている。きっとそうなのだろう。

 苦しみを代弁するとかそういう綺麗ごとじゃないところに、この作品はある。苦しみの吐露が誰かのためであってたまるかと、思う。
 読んでいる最中は、人間が生きているのだということを確かに感じられていた。ほとんど誰とも会わず会話も交わさないこの日々の生活の中で私は人間を抱いていた。今はもう使われていない知らない人のブログを辿るように、この作者が語る男たちを辿って、辿って、そうして、自分は生きているのだと実感したくてたまらない。読みたくてたまらない。

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