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現役世代の自由と時間が高齢者に捧げられている現状を、単なる美談で終わらせられる時代はとうに終わっている

世代間格差の問題はベーシックインカムを論じる上で避けて通れないと思っている。逃げずに書いていきたい。

僕らが日夜納めている税金なり年金なりが高齢者の生活の糧になっていることは、別に今さら言うまでもなく自明のことだ。これは見方を変えれば、現役世代が本来もっていた自由と時間を高齢者に捧げていることに他ならない。

でもそのことをもって、僕らの自由が奪われているとまでは言いたくない。僕らは誰もが年をとるわけだし、両親なくして存在できなかった。愛情や感謝のもとで自らの自由を渡すことは、自由の一つの形になるんじゃないかとは前回の投稿にも書いたとおりだ。

とはいえ、だ。政治や政府が怠慢に怠慢を積み重ねて制度疲労を見過ごしてきた結果、現役世代にふりかかった負担と奪われた自由の範囲は、あまりにも広く重たいものになりつつある。そこにあるのは愛情や感謝のような感情ではなくなりつつある。もっと率直に言えば、高齢者に対する怒りや憎しみの構図にまで発展してきている。「逃げ切り世代」や「上級国民」といった言葉の中にも、そのことが反映されているように思う。

もう時代を変えなくてはいけない。そのために僕らはベーシックインカムを手に入れたい。

ベーシックインカムが解放するのは、現役世代が高齢者に奉仕させられていた自由と時間だけではない。高齢者が奉仕される存在であるという古臭い世界観からの解放でもある。年齢と生活の糧とを結びつける必要性は今やどんどん薄れている。年齢に関わらず動ける領域や空間は広がっている。逆に、生活の糧に関わる様々なリスクも年齢に関わらず存在している。

年齢による線引きを拭い去った先には、新しい自由が広がっていくだろう。古臭い美談の時代は終わりにしよう。それが、ベーシックインカムの役割の一つだ。


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