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第10章:幸福であるためには自由になることが不可欠

今回はすごく概念的かつ普遍的なテーマを扱います。

まずはみなさんにお伺いしたいです。
ご自身を自由だと感じますか?
また、いま幸福であると感じますか?

なんだか宗教の勧誘のようなフレーズになってしまいましたが、全然そういう類の話題ではないです。※宗教を批判しているワケではありません。

先日、ある書籍を手にとって、自由とは何か、幸福とは何かということを考えさせられました。

そこで、色々と自分なりに調べていくうちに、たくさんの学びがあったので、いろんな角度からそれぞれの概念とわたしの考えを付け加えてまとめたいと思います。

今回のテーマを扱うにあたって、重要な視点だと感じたポイント2つを最初に述べたいと思います。

<重要な視点>
1. 自由と自分勝手は全く異なる
2. 幸福は結果ではなくプロセスにある

今回はわたしの私見よりも、哲学やその他学問の学びが多めなので、いつもより情報量が若干多いかもしれません。

しかし、まとめている内容の本質は上記の2つなので、その視点を軸にご一読いただけたらうれしいです。

それでは3つの項目に分けて考えていきたいと思います。

仏教思想での自由とは「自らに由る」こと


そもそも「自由」という言葉はどこから来たのか、どういう意味なのかということが気になり、調べてみました。

国内外の辞書や文献を読み漁った結果、以下の2つに集約されました。

1. 他から強制されないこと
2. 自主的に自分の本性に従うこと

次に、「自由」という日本語としての言葉の成り立ちを探りました。
その根元は仏教用語でした。仏教では以下のように表現されます。

自(おのずか)らに由(よ)ること

この表現の具体的な意味は、自分を拠り所とする、すなわち自分の中にある「自分」を軸にすることだと解釈されています。

「自由」という概念が一般的に普及したのは、福沢諭吉を代表とする明治時代の啓蒙思想家たちが、当時の西洋哲学で多用されていたliberty」の訳語として、この「自ずからに由る」という仏教用語を充てたことに由来します。

つまり、「自由」という言葉が一般的に使われるようになったのは、明治時代以降に、西洋の概念が輸入されたことに始まるということです。

では、その西洋では「自由」をどのように解釈しているかを見ていきたいと思います。

西洋思想での自由とは「解放される」「気ままである」こと


英語で、自由の訳語が充てられる言葉は2つあります。

<自由の訳語>
Liberty ・・・古フランス語libert(解放された状態)に由来
Freedom ・・・古ドイツ語frei(好きなように)由来

先述の通り、日本で明治期に翻訳された自由は「Liberty」です。
この意味での自由は、解放という概念が大元にあり、法哲学に繋がる用語として現在でも使われています。

ちなみに、自由の女神像は「Statue of Liberty」です。
アメリカ合衆国の「独立」100周年の記念にフランスから贈呈されたものだそうです。

「独立」とは、「あるものから解放された状態」を表すので、ここでは解放に由来するLibertyという用語がちゃんと使われていますね。
他から強制されないことこそが、Libertyであるという思想です。

一方で、オーストリアの哲学者フリードリヒ・ハイエク氏やイギリスの批評家バーナード・ショウらは、「自由」と「責任」という2つの軸で自由を論じています。

自由は責任を伴う

こういう文脈で語っている自由は、「Freedom(=自分の好きなように気ままである状態)」の要素も大きく含まれています。

つまり、「自分の好きなように生きる場合には、その分の責任が伴いますよ」という視点です。

以上のように、「自由」という概念を探っていくと、あらゆるアプローチがありますが、大きくまとめると先述のように、「解放された」と「好きなように」の2つ意味を含むものと捉えることができると思います。

では、冒頭でお伝えした「ある書籍」について、次にまとめていきたいと思います。

自由になることと幸福になることの関係


長らくひっぱりましたが、ある書籍というのはブロニー・ウェア氏の著書『死ぬ瞬間の5つの後悔』という本です。

オーストラリアの介護ヘルパーの経験を持つウェア氏が、長年の間、ご老人たちが最期を目前にして口にしたあらゆる後悔を聞くことを通して、そこから得た「幸せに生きるための気づき」をまとめた本になります。

本書で挙げられている5つの後悔のうち、特にわたしの心に刺さったのは、

「自分に正直に生きればよかった」

という後悔を語られている部分でした。

人は、他人や環境その他周りの何かの期待に応えたいとか、良く見られたいとか、無意味な責任であったり承認欲求に振り回されることが多いが、それは果たして自分の人生を生きていると言えるのでしょうか、という問いかけから始まります。

自分に自信がなかったり、自分の存在意義を他者に求めたりすることは、本質的な幸せと呼べるのでしょうか。

人の目を気にして、もしくは、評価されたいということを求めることで、実は自分のありたい本当の自分を蔑ろにしてしまっているのではないでしょうか。

死期を悟った多くのご老人が、自身の人生を振り返った時に口にする多くが、この「自分に正直に生きればよかった」という後悔だったという言葉に、ズシンという音が聞こえるほどに心に響きました。

また、とても古い文献に遡るのですが、この衝撃は大学の学部時代に読んだアランの『幸福論』に書かれていた言葉を思い起こさせます。

1925年に書かれたアランの著書『幸福論』では、幸福とは何かということが長々と書かれているのですが、次のような言葉が出てきます。

あなたは自分の畑を耕していますか?

この言葉は、当時大学生だったわたしの心に刺さる絶妙な表現でした。
あなたが耕しているその畑は、人の畑ではなく、本当に自分の畑なのか、という問いかけです。

これは、就職活動を目前に控えたわたしにとってはとても考えさせられる言葉で、いまだによくこの言葉を思い出しては自分の言動を振り返るようにしています。

まとめ

いつの時代も、「幸せ」であるためには、自分の人生が自分の本意で過ごせているか、自分を拠り所として、自分を軸に、他者に強制されるのではなく自分の好きなように、ちゃんと生きられているか、そういう問いが投げかけられていると気づきました。

日本の近代哲学者の丸山真男は、自身の考える「自由」について『日本の思想』で次のように語っています。

「自由になろうとすることによって、人は初めて自由でありうる」

つまり、自由はどこかに「ある」ものではなく、自らの意思を持って行動することで初めて自由に「なる」と言えると説いています。

そして、自由に生きるというのは、「自由は責任を伴う」という先述の言葉にある通り、単に自分勝手に生きるという表面的な意味ではなく、他者との関係を鑑みながら、その制約の中で、自分本来の自分に正直に、本質を見極めながら考えて行動することで達成されることだと考えます。

また、「幸せ」ということを考えた時に、「幸せ」というものは追い求めると不幸になることがよくあります。

たとえば、お金持ちになることが自分にとって自由で幸福なんだという解釈でお金稼ぎを目標に追い求めると、お金が稼げないことで不幸だと感じてしまう場合もあると思います。

それは果たして本当に「自分に由る」「幸せな」生き方なのでしょうか。

わたしが思うに、幸せに「なる」という結果を求めるのではなく、幸せで「ある」という視点で日々を過ごすことが大切なことだと考えます。

幸せは追い求めるものではなく、日々過ごす生活の中の喜怒哀楽にあるのであって、それは他者や社会に流されたり縛られたりすることなく、自分に正直に(自由に)生きていると自然と感じられるものだと思います。

<まつおの考え方>
自由は「なる」もの。
幸せは「ある」もの

みなさんは今、自由に幸せに生きられているでしょうか。

また、自分に正直な人生とはみなさんにとってどんな生き方でしょうか。

わたしもいまだにこれといった自分の中の尺度を持ち合わせているわけではないため、ズバッと一言で表現できないのですが、大切にしていることは、「自分に正直に自由に生きる」ということと「幸せは日々の生活の中にある」という視点で、常に立ち止まってこの2つの気づきに立ち戻るようにしています。

生い立ちや経験、触れ合ってきた友達や目上の存在、または家族との関係などで無数の幸せの尺度や捉え方が存在しているので、これが幸せの定義だと結論づけられるわけもなく、結局は「自分」がどう感じるかが大事な視点だと考えます。

いつもの通り、まとめとは名ばかりの、ちゃんとまとめていない終わり方になりますが、みなさんのとっての幸せに生きる指標となった言葉や心に残っている言葉なども、もし教えていただけたらうれしいです。

今回は以上となります。

答えのないこのテーマについて、最後までお付き合いいただきありがとうございました。


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