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32 四十は本当に不惑なのか

「四十にして惑わず」とは言わずと知れた論語の一節だ。「五十にして天命を知る」と続く。しかしここで疑問が湧く。五十で天命を知るのになぜ四十で既に不惑なのか。四十で天命を知っていると言う事ではないのか?
中国の古代文字研究者である安田登氏はこう解釈する。論語の時代にはまだ「心」という語は存在しなかった。だから「不惑」は本来「不或」だったはずである、と。白川静博士の『字通』によれば、「或」とは「戈をもって口、すなわち城郭を守る」とある。つまり閉じこもった状態を言う。であれば「不或」とは、通説とはまったく逆の「これまでの自分を打ち破って思い込みを離れる」といった意味になる。そう考えると「不或」の後に天命を知る事で筋が通る。「惑わず」ではなく自分が囚われている固定観念を捨て、離れる。それが四十の課題であると。

コロナ禍で多くの自治体で成人式が中止となった。中止の決定が遅ければ遅いほど出席者や関係者への負担が大きくなる。埼玉県の越谷市では昨年11月10日には早々と、式典の中止および1月10日には会場に記念写真撮影ブースを設置する旨をアナウンスした。旧来の「式典中心」の考え方から離れ、「同級生と久しぶりに再会したい」「晴れ着姿で写真を撮りたい」という出席者の心理を的確に捉えての対応だった。

今、旧来の思い込みを大きく離れて、モノゴトの本質を洞察し、何が本当に必要なのかを的確に読み取る作業が必要な時である。自分が作った限界を超えてこそ、新たな晴天を望むことが出来るはずだ。

*今週の参考図書
・『日本霊性論』内田 樹, 釈 徹宗  2014年/NHK出版

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