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#33 賢治と虔十とホノホシと

宮沢賢治の『虔十公園林』を新潮文庫で読んだのは中学生の頃だった。『風の又三郎』や『グスコーブドリの伝記』と共に一冊にまとめられていた。虔十(けんじゅう)とは主人公の名前で、賢治が自分自身と重ね合わせているであろう事を思わせる。
 
虔十はいつも森の中や畑の間をゆっくり歩いている。「雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました」・・・「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした」
 
解説書やWikipediaをみると、虔十は軽度の知的障害を持っていることになっている。「けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました」との一文から、そのことが窺える。
 
さて、奄美大島の私である。朝、犬と一緒に散歩をする。その時、私は虔十と同じ気持ちになっている。アカショウビンが鳴けば遠くの森に耳を澄まし、イソヒヨドリの賑やかさに頬を緩める。電柱のてっぺんの金属製ステーを叩き続けるオーストンオオアカゲラに目を細め、昇り来る朝日を見てはその鮮やかさにため息をつき手を合わせる。山風と海風の切り替わる瞬間には足を止めて肌の感度を上げ、潮風の始まりを全身で捕まえる。畦道では夏の草いきれを肺いっぱいに吸い込む。そんなふうにして私の一日は始まる。
 
奄美には始発電車も終電もない。その代わり、島の南端のホノホシ海岸へ行くと、「悠久」に出会うことが出来る。直径10センチから20センチくらいの丸石だらけの海岸である。寄せた波が引く際に、丸石を引き摺りゴロガララーと音を立てる。千年、二千年、地球創生のその時から同じリズムを繰り返して来たのではないかと思うくらい、単調にゴロガララーが繰り返される。人の時間スケールでは測りきれない悠久が、そこにはある。

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