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#なんちゃってスピリチュアラーに気をつけろ!

奄美や沖縄にはユタと呼ばれるシャーマンがいる。少し前までは年寄りの中に「医者半分、ユタ半分」という言葉が生きていて、体調が悪くなればユタの所へ行き、憑き物でなければ医者へ行くのだと言われた。私の暮らす集落にもユタがいて、私は普通にレイコ姉さんと呼んでいる。島外から越して来た私を気にかけてくれて、犬の散歩の途中で会ったりすると必ず声をかけてくれて、我が家の愛犬を大変可愛がってくれる。通常はごく普通のご婦人だ。
 
集落で誰かが行方不明になれば、「私が視る前に誰も触るなよ」と言い、その間は誰も警察に通報したりしない。「視る」とは霊視の事であり、「触る」とは警察や捜索者がガサガサとあちこちを探し回って空気を乱す事を言う。「私が視るより前に警察などが入ってしまうと何も感じなくなってしまう」とレイコ姉は私に語ってくれた。そうしてレイコ姉の霊視は当然、的中するのだった。ある時は海で泳ぐ中学生を見かけて、すぐにその親のところへ行くと「アンタんトコの子が死人と一緒に泳いでるからすぐに上がらせなさい」と忠告したこともある。ユタには力がある。ユタは島では「ユタ神様」とも呼ばれる。集落ではレイコ姉を「神様レイコ」と呼んで蔑む人も多い。ユタとはそのような存在であり、レイコ姉はそんな事も含めてユタとしての生き方を受け容れている。
 
私がお世話になっている方の娘さんが、30年ほど前に神様になった。ユタとしての霊能を持ったのだ。中学2年の頃から高校1年の頃まで約3年間、「神ダーリ(神がかり)」と呼ばれる霊障に苦しみ、家族もそれに振り回された。霊障も末期の頃、昼夜を問わず眠り続ける娘さんの元へ、ひとりの男性ユタが呼ばれた。男性ユタはじっと娘さんを霊視して「この子はもう立派な神様になっていらっしゃる」と言った。目を覚ました娘さんは霊障から解放されていた。この様子は『神に追われて 沖縄の憑依民俗学』(谷川健一 2000年 新潮社)に記されている。(もちろん登場人物はすべて実名ではなく仮名)
 
ユタとはこのような神ダーリを経て、好むと好まざるに関わらずユタとして生きる事を強いられた人たちなのだ。沖縄や奄美ではユタという言葉は軽蔑的な意味合いを込めて使われ、ユタの人たち自身も「ユタ」と呼ばれる事を好まない。(『ユタとスピリチュアルケア: 沖縄の民間信仰とスピリチュアルな現実をめぐって』浜崎 盛康 <編集>, 宮城 航一 <著> 2011/8/1 ボーダーインク )
 
ところが世の中にはスピリチュアルな能力をファッションと勘違いしている人も多く、ナイチャー(内地の人・島外の人)の中には先祖が奄美や沖縄に縁があるというだけでユタを名乗り出す人も多い。島の人は自分からユタを名乗る事は無い。「私はユタです」と公言する人は、まず疑ってみた方が良い。何よりユタは先に述べた通り「好むと好まざるに関わらずユタとして生きる事を強いられた人たち」であり、それは一種の呪いでもある。なりたいからと言ってなれるものでもなく、なりたがるものでもない。ましてや成巫式(ユタになるための儀式)を経たからと言ってまるで免許を貰うようにユタになれるわけではない。最近はSNSのプロフィールにまで「ユタ」と書いてしまうお間抜け様も現れている。「なんちゃってスピリチュアラーに気をつけろ!」とだけ言って、今回の稿を終える。

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