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18 離島は、未来だ。

鹿児島県、特に離島は経済規模が小さく平均所得も低い。今はどうなのかはわからないが、10年前に奄美大島へ越して来た頃、月に18万円も貰えば高給取りだと言われた。公務員が職業としてのステータスであった。しかし住民は会社勤めの他に畑を作っている人が多く、採れた野菜が食卓に上り、余ると近所へのお裾分けとして配られた。周囲は海なので魚も豊富だ。漁師から信じられないほど安い価格で買う事が出来る。時にお裾分けとして大振りのカツオが1尾巡って来る。潤沢とまでは言わないが、島の食卓は満たされている。都会から来た移住者が3年も経つ頃には、高級車とかブランド服とか高収入など自分が目指して来た豊かさとは一体何だったのかと自問自答する事になる。贅沢せず見栄を張らず欲張らず、労力も食べ物も分けあって島の人は豊かに暮らしているのだ。
 
「分をわきまえる」と言う言葉がある。現在は「身の丈」という言葉で語られる事が多い。語感だけでは何だか夢のないマイナスイメージの言葉にも聞こえる。昨年末には文部科学大臣が試験制度を巡って不用意にこの言葉を用いてしまい、謝罪して発言を撤回する事態に至った。反面、ネットを検索すると相当数の「身の丈暮らし」を推奨する記事がある。
 
そもそも身の丈ってなんだ?と言う話だ。「せたけ。身長」これが辞書の答えだ。そして「分」とある。元に戻った。
以下、私個人の超解釈である。
 
「分」「身の丈」とは大枠では「能力」の事だ。例の文科相が使用した意味もこれにあたる。では何の能力か。「日常の営みをベースとした上で、どれだけの資源(モノやカネ)を継続的に更新し続けることが出来るのか」これが人それぞれの「能力」であり「分」であり「身の丈」だ。この能力を超えてしまうと、人は借金が返せなくなり、他人の手を借りる事になり、身の破綻に至る事もある。小学生のお小遣いの使い方から世界経済、地球環境の保全にいたるまで、その原理は変わらない。言ってしまえば人間としての分を超えてしまっている事に現代社会の病巣がある。大きな話になってしまったが、続ける。
 
資本主義が正常に機能しうる限界は、人が生体としての必要を満たす所までであった。衣服を整える。満腹になる。雨風を凌ぐことの出来る家に住む。衣食住だ。しかし現代は身の丈を超えて贅沢品を消費し続け、挙句は金で金を買い始めた。膨らみに膨らんだ経済を維持するために人が働かされるようになった。人のための経世済民であったはずの経済が、人を奴隷として使うようになった。どこかのSF映画と同じ事が起きていることに気付かなくてはいけない。私の私淑する島田恒先生が、「あまりにも経済」と言ったのはこの事だ。私が10年以上もNPOの活動に携わる契機となったのも、「あまりにも経済」から人のための社会を取り戻したいという思いからであった。
 
自分の車が時速200キロも出せるからと言って、一般道で実際に200キロを出して良いわけではない。しかしそれを目指して来たのがこれまでの「あまりにも経済」な社会の在り方であった。昭和の繁栄を知り、バブルの時代を過ごしてしまった世代には捨てがたい夢かも知れないが、高級車を買って自分だけを満足させていられる時代は当に過ぎ去ったのだ。社会的、地球環境的な制約をわきまえた上で、どのような幸福を思い描くのか。それがこれからの、分をわきまえた大人の在り方でありステータスである。島暮らしの中に、そんな在り方へのヒントが見出せると思っている。
 
*今週の参考図書
・『NPOという生き方』島田 恒  2005年/PHP研究所
・『光り輝く未来が、沖永良部島にあった!』石田 秀輝・古川 柳蔵  2015年/ワニ・プラス
・『バックキャスト思考』石田 秀輝  2018年/ワニ・プラス
・『ローカリズム宣言 「成長」から「定常」へ』内田 樹  2018年/deco
・『小商いのすすめ 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ』平川 克美  2012年/ミシマ社

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