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#30 島が教えてくれた

奄美へ越して来る前は愛知県で暮らしていた。当初はプロパーの社員として10年ほど中堅企業の勤め人をしていたが、そこを辞めてからは知人の起業に付き合ってベンチャー企業の社員となった。その知人が元々、富士通でエンジニアをしていた関係で仕事はボチボチと入って来た。しかし何だかつまらない、と言う理由でそこも辞めた。それからは派遣のシステムエンジニアとして日立やトヨタ系列のシステム会社へ行き、大きなチームで大きな仕事をする経験を積む事が出来た。派遣社員である事に嫌気が差して来た頃、以前の派遣先へ電話をしてみたらすぐに来てくれと言われた。そこでフリーランスのエンジニアとしてその会社と契約をした。私のフリーランスデビューである。以前派遣されていた頃と同じ額を支払うと言われて軽くOKしてみたら、その額がそれまでに貰った事のない程の高額だった。派遣会社がどれほど沢山持って行っていたのかをそこで初めて知った。
 
さて、フリーランスとなって過去最高額の収入を得られるようになったのだが、精神的にはかなりボロボロの状態だった。満員電車で1時間半の電車通勤をし、帰宅は終電だった。何しろIT産業の勃興期である。新技術について行くための勉強もしなければ仕事にならない。寝る時間を削るしかない。
 
奄美の義母から泣きながら電話が掛かって来たのはそんな時だった。義父のパーキンソンが進行し、一人での介護は限界だと言う。奄美へ引っ越す事を即決した。私も限界だったのだ。
 
奄美大島へ越して来て、300世帯ほどの集落での暮らしが始まった。引っ越す1ヶ月前に1度島へ来て、就職先も見つけておいた。奄美の義父は、集落の人々の支援で3期ほど市議会議員を務めていた。私は義父を支援してくれた方々に失礼の無いように、集落で会う人たちにはひたすら頭を下げ続けた。そのうち、頭を下げ続ける態度が私の島暮らしの基本姿勢となった。14年目の今も、私は頭を下げ続けている。
 
大袈裟に聞こえるかも知れないが、この14年間はそれまで自分のしたい事ばかりに気を取られていた私の、命の浄化期間ではなかったかと今になって思う。人付き合いが下手だった私が、集落のオジイやオバアとの談笑に使う時間を惜しいと思わなくなった。犬の散歩に出れば誰彼となく挨拶をしてくれて、こちらも挨拶を返す。「暑いね」「雨が降るかもやぁ」などと言葉を交わす。ほら持っていけと野菜や釣りたての魚をくれる。散歩から帰ると両手に荷物がいっぱいである。
 
最近ちょっと認知の状態が心配なわが家の隣のオバァは、わが家が一家を上げて面倒をみている。
3才ほどの知能のまま60歳になったT君は、私を見ると満面の笑みで手を振ってくれる。誰からも相手にされていなかった彼は、会うたびに声を掛ける私を友達として認識してくれたのだ。
集落一の飲んだくれと言われるS兄は、軽トラで通りかかる度に窓を開けて無言で私にバナナを手渡したり背中を叩いたりして親近感を表してくれる。名古屋で疲れ果てていた頃の私と、今の私とでは、まったく境涯が違う。
 
哲学者の内田樹は、人生は共身体を形成する過程であると言う。共身体とは人の痛みを自分の痛みとして感じられる状態である。また全体の端々まで神経が行き届いている状態でもある。共身体であるために必要なことは、こちらから声を掛けることだ。それによって他者も反応を返してくれる。反応の往来によって全体をわが身の感覚として身に纏うことが出来る。これを仏教では「同苦」と説く。
 
私が島に来てからの14年間を「命の浄化期間」と感じるのは、つまりはこの「共身体」「同苦」を身をもって感じているからである。経済的関係でも社会的関係でもなく、共身体。それは、腕をチクリと蚊に刺された時に瞬時にピシャリと叩く事が出来るように、自分がこの人たちの中で何をすべきかが明確に分かるという事でもある。これは、すべて島での生活が、私に教えてくれた事である。

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