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47 他者と自分と花とウンコ

わが家の愛犬、チョットくんがヘルニアの手術をした。病院では環境の違いのせいか食事を摂らず、傷口よりもむしろそちらの方が心配だからと2日目に退院して帰宅した。肛門の周囲と腹部を切開していて糞便は垂れ流しの状態で、飼い主は24時間、愛犬の下の世話をする事になった。しかし私や妻に取ってこの作業は妙に納得の行く作業で、それは、もはや愛犬と私たちは家族であり一体の存在であるという感覚から来るものだ。
 
誰かがラジオ番組で「夫婦は宿命だ」と言っていた。グチを言ってもしょうがないのだと。同じような事を言っているのが、お好み焼きチェーン店・「千房」創業者の中井政嗣だ。中井による経営者を対象にした講演の内容は有名だ。「きれいな花には、美しい蝶が集まる。ウンコには、ハエがたかる。会社に、ダメな社員しかいないと嘆く社長は、ウンコなんです」

自分と他者、または自分と環境。その関係性は器と水のようなもので、四角い器に入った水が四角いからと言って怒るのは筋違いで、自分が丸い器になれば水も丸くなる。すべては自分と言う器の形にしかならない。自分と環境は一体であり、分かち難い。他人も環境も自分も分かち難く、共にここにある。

日本で「自分らしさ」とか「自分さがし」などと言う言葉が流行りだしたのは1983年に中野孝次の『自分らしく生きる』(講談社現代新書)が刊行されてからだと言う。それまで「世間」に縛られて来た日本的社会に対する反動であるようにも見える。
 
「世間」と「共同体」の違いとは、思うに「善」を志向した自己変革の有無ではないだろうか。世間とは、自分とは別個に対照化された環境のことであり、共同体とは善を志向した個々が助け合う社会だ。
「世間が悪い」と若者が叫ぶのは善を志向した自己変革が無いからで、善を志向し、環境に即応する自己変革の無い者が、満足する環境や対人関係を得る事は出来ない。環境と自分は分かち難く一体である。

コロナ禍で誰もが辟易している中、マスクをするかしないかで自分だけの正義を振りかざして他人に迷惑を掛ける者がいると言う。ただただ迷惑で語るに値しないニュースのようでもあるが、これもまた自分とは不可分の社会の側面である。

繰り返すが、ウィルスが蔓延した社会と自分は分かち難く一体不二である。善を志向し、環境に即応する自己変革の無い者が、満足する環境を得る事は出来ない。

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