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31 ナイスでイケてる大人への道

ひと頃、「最近、事故や事件が増えたなあ」と感じていた頃があった。20年くらい前だろうか。「小学生の列に車が突っ込んだ」と言うニュースを年に何度も聞く。なぜだろうと疑問に感じていたところ、答えを教えてくれた人がいた。情報量が増えて昔はメディアに乗らなかったニュースが電波やネットに乗って届くようになったからなのだ、と。元々あったのだけれど、見えなかったものが見えるようになったのだ。
 
SNSの普及によって、情報伝達の量と速度がにわかに増幅された。それによって事故や事件、災害の瞬間、ペットの可愛いしぐさからそうめんを上手に茹でるコツまで、これまで見えなかったものが見えるようになった。私はFacebookを使っているが、見たくないのに見えてしまって嫌だなあと感じるものも多い。それは人の心だ。
 
動物が自分の力を誇示するために相手にまたがることをマウンティングと言う。そこからネット上では、誰かよりも自分が優位である事を示す行為を「マウントをとる」と言われるようになった。すでにマウントをとる人の心理やマウントされた時の対処法については数多く分析されている。
 
私自身のSNSでの体験を言えば、社会的な立場や知名度があるにも関わらず、やたらとマウントをとる人がいて辟易している。対処法としては、なるべくそれ以上の情報を相手に与えないようにする。その上でマウントの事実はスルーして普通に接する。マウントは自足が叶わない人の自然な心理でもあるので、私はその人を責めようとは思わない。しかしその姿は仏教で言うところの六道に迷う姿であり、人としてみっともない。せっかく社会的に人から羨まれるような立場があっても、それと人としての在り方は別なのだ。
 
それでは理想的でナイスな大人の在り方とはなんぞや、という話だ。端的に言えば、自分自身の質的転換が人生の目的だ。では、どの方向に転換するのか。それは「共身体」を形成する方向への転換だ。話がややこしい。「共身体」とは人の気持ちがわかると言うことだ。人の痛みをわが痛みとして感じられる自分になって行くこと。そこを目指し続けること。それがナイスでイケてる大人だよと、仏教の経典には書いてある。
 
迷惑な人とは、結局のところ人の痛みがわからない人だと言うことだ。あらためて言うが、SNSでマウントをとるその偉い先生にはぜひナイスでイケてる大人になって欲しいと願う。

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