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20 世の中を変える力

「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」との言葉を聞いてピンと来る人はきっと村上春樹のファンなのだろう。エッセイ集『走ることについて語るときに僕の語ること』の中に、ルーマニアのオリンピック銀メダリスト、リディア・シモンの言葉として引用されている。元は"Pain is inevitable. Suffering is optional."だ。

どう言う意味かは村上春樹の言葉を借りる。
「たとえば走っていて『ああ、きつい、もう駄目だ』と思ったとして、『きつい』というのは避けようのない事実だが、『もう駄目だ』かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられていることである」
 
避けようの無い現実を前に、どう判断するか。きついからやめてしまうのか、それを契機に新機軸を打ち出すのか。それは自分の裁量に委ねられている。
立川談志はこう言った。「世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。〜中略〜 現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」(『赤めだか』立川 談春)
 
リディア・シモンの「苦しみはこちら次第」という態度は、談志の「現状を認識して把握したら処理」する以上に積極的に幸福へと向かう態度である。
 
知人の、中学を卒業したばかりの娘さんが妊娠してしまった。困惑した母親は、いつも頼りにしているオバァに相談した。オバァは開口一番こう言った。「なに言ってんの、おめでたいじゃないの!良かったねぇ。」
もしこのオバァでなければ、「大変ね」とか「で、どうするの?」と興味混じりの同情だけで通り過ぎてしまったのかも知れない。しかしオバァは違っていた。困惑する母親を何とか元気にしたい一心だった。それは妊娠した娘さんのためでもある。オバァのひと言で母親は、今後どうすべきかの腹が決まったと言う。娘さんは家族に祝福されて幸せな出産をした。
ひとつの生命が生まれるという事実は誰かが苦しんだり悲しんだりする種類のものではなく、喜ぶべき事実であったと母親は気づいたのだった。現実は現実だがそれをどう判断するかはオプショナルなのだ。
 
世の中は世知辛いもの、と言うのが定番だ。世知辛い世の中で、ああでもないこうでもないと何とか折り合いをつけながら生きているのが私たちだ。
一般に世の中のことを世間とも呼ぶ。世間は三つの切り口によって立て分けられている。住んでいる場所を指す「国土世間」、どんな人が住んでいるのかを指す「衆生世間」、人が何をどう感じるかを指す「五陰[ごおん]世間」だ。
何らかの原因によって「私は不幸だ」と感じる人がたくさん集まれば、不幸な国や地域が出来上がる。
何があっても、それを契機に頑張ろうと思う人が集まれば、頑張り屋さんの国が出来上がる。
頑張り屋の国で育つ子供は、頑張り屋に育つ可能性が高い。そんな国や地域は、豊かに逞しく成長して行くのだろう。逆もまた然りである。土地・人・心は相関しているのだ。
 
環境を積極的に変え得るのは人でしかない。
さて「自分」というフィルターは、現実を受け止めてマイナスの反応を返すフィルターなのか、プラスの反応を返すフィルターであるのか。じつは、人生の究極の問いはそこにある。生活とはひとえに、自分というフィルターを磨き上げて行く作業にほかならない。直面する現実にどんな反応を示すのかは、オプショナル(こちら次第)なのだ。

*今週の参考図書
・『走ることについて語るときに僕の語ること』村上 春樹  2007年/文藝春秋
・『赤めだか』立川 談春  2008年/扶桑社

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