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vol.2 においの解明。世界に、人類に、大きなインパクトとギフトを残す挑戦。におい×AIで、目指すは“においの民主化”。

大学受験

朝6時から夜22時まで勉強をしていた。しかしながら思うように学力が上がらず、焦りだけが募る日々を送っていた。そんな時にAO入試の存在を知った。AO入試のための応募書類には、自分は何をしたいのか書く項目があり、改めて自分のやりたいことを考えるきっかけとなった。当時の応募書類を久しぶりに見返してみたら、ロボットを作るために脳みそを作りたいと書いてありました。今となってはそれはAIというワードになっている。幼少期からずっと同じ夢を抱いていたんだなととても感慨深い。そして長崎大学に入学をした。ここで恩師、片峰茂学長と出会うことになる。

大学(サークル活動)

大学では、生活協同組合の組織部というサークルに近い組織に入った。そこでは、大学生協主催の新入生歓迎会や広報活動を中心に行っていた。しかしキラキラしたところは苦手だったので、表に出るようなことはやっていなかった。

そんな折、大学生協の新入生に配るため広報紙を書く機会があり、長崎大学片峰茂学長にインタビューをとった。大きな組織を動かし、しかも学長は実際に研究者でもあった。学長の話はとても楽しく、何ページも書いたのを今でも覚えている。実際に掲載できるページは2ページだったが。

インタビュー中に学長は「いつでもきていいよ。」という意味深な言葉を放ち、私はその後本当にその言葉を鵜呑みにしたまま大学生活が始まる。

そしてしばらくしてから、全学サークル連合というサークルの会長になった。そこでは大学のサークルの運営活動をよりよくするために、資金を集めたりサークルの部長たちがMTGなどを行うための組織だった。一部のサークルが部室を持っていたが、全てのサークルが部室を持っているというわけではないことを知り確認したところ、部室の管理は大学側がやっており、審査基準などは存在していない。そこで学長に、部室の割り当て権利を欲しいと直談判した。そうすればよりよい未来あるサークルが部室に入れるようになると。しかしこれは全力で否定され、激しいディスカッションが始まり、事務局長が何事かと慌てて学長室を覗きに来たほどだった。

事務局長の介入でディスカッションは落ち着き、学長は学長室にあるひっくり返された日本地図を指差しこういった。

「長崎という土地は昔は日本の中で、長崎が中心であった。しかし、現在は東京が中心である。世界は広い。お前はこんなところにいるのではなくて、世界をみてきたらどうだ。」と。私は非常に納得してすぐ海外に行こうと思い、休学届を出して1年間放浪をすることにした。

ちなみに片峰学長とは今年に入ってからも食事をしており、頻繁にやりとりがある。恩師とこうやって食事ができるのはとてもうれしく幸せだ。

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海外放浪

特に自分探しをしてるわけでもなく、正直ただの旅行だった。だが日本と世界が何が違うかは知りたかったし、国民性の違いやピラミッドもみてみたくてワクワクしていた。

まずカンボジアに行った後、フィリピンに1ヶ月英語留学に行ってみた。当時デング熱に感染したり大変なこともあったが、今となってはいい思い出である。その後シンガポール⇒マレーシア⇒タイ⇒ロシア⇒タイと各国を回った。そしてUAEに向かった際は、大変な思いをした。サウジアラビア経由の便だったが、トランジットで39度の高熱を出した。薬が手に入らず、しかも言語が通じず今にも倒れそうな状態だった。職員に英語で話しかけるももちろん通じず。職員たちが困惑しその場を去ろうとするときに、とっさに彼らの腕を掴み私の額に触れさせた。そうしたら発熱していることに気が付いてくれ、薬や食事を提供してくれた。おかげで見知らぬ土地で倒れずに済んだ。

インド⇒エジプト、イスラエル、ヨルダン、トルコ、ウクライナ、モルドバ、ルーマニア、スペイン、ヴェネツィア、パリ、メキシコ、LAなどなどほんとにいろんな地に行ってみた。

ウクライナでは壮絶な事件が起こったことは今でも忘れない。

たまたまその時一緒に旅をして回った友人が、高熱を出した。もちろんお互いロシア語が分からない。病院に行くも言葉が通じず薬がもらえない状態が3日も続いた。国外に連絡する手段がなかったため、ないなら作ってしまおうとiphoneを改造して、友人の保険会社に繋げた。なんとか救急車を手配できたと思ったら、今度は通信料の上限が来てしまい、保険会社との通信が途絶えた。ひとまず入院ができるようになったものの、なんと精神病棟に送られてしまった。騒ぎながらわけのわからないロシア語を話す私と、衰弱しきった友人を見て危険人物と思われてしまったのだろう。その後もいろいろあったが、日に日に友人は体調がよくなっていった。高熱の原因は、尿路結石からくる細菌系の発熱だった。あのまま病院に連れていくことができなかったら、取り返しのつかないことになっていたかもしれなかった。

この海外放浪でとっさの対応力や臨機応変力がかなりついたと思う。前は怒りやすい性格でしたが、ずいぶん寛容になった。

海外放浪をしていなければ、もしかしたら「においセンサーを作ろう」で終わっていたと思う。でも海外放浪をしたおかげで、世界の裏側でも使われるビジネス展開をしたい、そしてセンサーを使うことでどういう社会を実現できるのかと考えるきっかけになった。言語の壁もなく、何十世紀も残る偉業を成し遂げたいとどんどん夢は広がっていった。

ウクライナ 恋するトンネル

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エジプト

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