悪いとこ取りの総合——岸田首相の施政方針演説について

先日2月12日のノート記事でも書きましたように、寒いと喘息の調子が悪くなるぐらいで、総じて全く正常に暮らしています。先日の抗がん剤点滴のとき、患部の微細な結節のようすをCT画像で見せてもらったら、ごくわずかに成長しているとのお話でしたけど、しろうと目には全然変わっていないように見えました。仕事柄わずかの成長の有無をめぐって喧々諤々することは慣れていますが、もともとが微細な結節ですし、全く気にするようなものではないと思っています。
薬の副作用に、白血球が減るかもしれないというものがあって、副作用というものはずっと大丈夫でも急に出ることがあるそうで、やっぱり時節柄コロナとかインフルエンザとか感染を気にしてしまうのが一番ストレスフルです。こんなの気にするのがいつまで続くのかねえと思います。

それで、前々からの予定通り、先日の抗がん剤点滴の翌日から、九州の地方都市の自宅にコロナ疎開したのですが、結局、コロナも収まってきたということで、早々に京都に戻ることになりました。

今月は「ウェブ発信強化月間」だとか言って意気込んでいましたが、やっぱり同時に複数のことができない性格で、移動だとか、その他なんだかんだと用事が入ったら、結局何にも進んでいない。
でも意気込んだ手前、28日しかない今月の月末が迫ってきているので、すでにできている文章から投稿していくことにします。

とりあえず、さる筋から依頼されて書いた、1月23日の岸田首相の第211回国会施政方針演説に対する評論をここに公表することにします。


岸田文雄首相の第211回国会施政方針演説に対する論評

政財界で引き合いしてきた二つの路線の総合

 昨年論創社から上梓した拙著『コロナショック・ドクトリン』で詳しく解説したとおり、これまで、政財界では次の二つの路線が存在し、対抗し合ってきた。ひとつは、政府の常連の経済ブレーンたちが提唱し、菅政権時代に最も典型的に志向されたハードコアな新自由主義の路線で、もうひとつは21年6月に経産省が打ち出した新しい産業政策の路線である。

 前者は、国内産業を「更地化」して海外に追い出し、一部の高付加価値とされる産業に財政を集中して、規模拡大と集約化を進める路線である。中小企業や個人事業の淘汰と労働の流動化・非正規化を推進し、この推進のためにも、円高による海外からの安い輸入品で低賃金労働者を食べさせるためにも、財政緊縮と大衆増税、金融緩和の打ち止めを志向する。

 後者は、経済安全保障のために製造業の国内回帰を目指し、国家が課題を設定して積極財政で資源動員することを主張する。そのためには一時的な財政赤字をいとわず、マイルドなインフレが経済成長のためには必要と位置づけ、国内回帰のためにも円安を志向する。

 菅前首相が進めた前者の路線は、河野太郎氏らが継承者で、財務省がバックアップしている。後者の路線は、安倍元首相が推し、高市早苗氏らが継承者で、経産省がバックアップしている。自民党内には、この両路線にそれぞれ基づく財政問題の審議機関ができており、互いに引き合いをしてきた。

 拙著では、岸田政権はその両路線の引き合いの妥協点の上で揺れてきたと総括していた。しかし、今回の施政方針演説で感じたことは、いまや岸田政権は両路線のあやふやな妥協ではなく、「悪いとこどり」という意味での、ひとつの明瞭な「アウフヘーベン」の道を見出したということである。

「新しい資本主義」像は経産省の新産業政策のモデル

 岸田首相が総裁選で「新しい資本主義」と言い出した当初は、その具体像はあいまいでよくわからなかったが、新自由主義に代わって、何かもっと「リベラル」な経済システムを模索するというイメージで語っていた。しかし今回の施政方針演説では、全く違った姿をはっきりと見せている。
 首相は、「四、新しい資本主義」の冒頭次のように述べている。

 世界のリーダーと対話を重ねる中で、多くの国が、新たな経済モデルを模索していることも強く感じました。
 それは、権威主義的国家からの挑戦に直面する中で、市場に任せるだけでなく、官と民が連携し、国家間の競争に勝ち抜くための、経済モデルです。
 それは、労働コストや生産コストの安さのみを求めるのでなく、重要物資や重要技術を守り、強靱なサプライチェーンを維持する経済モデルです。
 そして、それは、気候変動問題や格差など、これまでの経済システムが生み出した負の側面である、さまざまな社会課題を乗り越えるための経済モデルです。
 私が進める「新しい資本主義」は、この世界共通の問題意識に基づくものです。

 これは、同じく新自由主義に代わるモデルでも、経産省が新産業政策を打ち出した報告書に書いてあった考え方そのものである。そこでは、欧米中で現れた新自由主義に代わる新しい経済政策の動向とそれを根拠づけるアカデミズムの議論をよく検討して、その共通点を、まさに首相がここで言っているようにまとめているのである。ここには、このモデルの典型が中国の習近平体制であり、欧米諸国はそれを一種の成功モデルとして、負けないようにと対抗的に取り入れているという背景がある。

 特に注意すべきことは、経産省の報告書では、「ガバメントリーチの拡大」という言葉で政府による介入権限の拡大を志向し、政府が自ら設定した課題をそうした強い権限で資源動員して解決することを、よいこととして提唱している点である。それは、昭和自民党的な方式と新自由主義的な方式の双方を否定する言い方で打ち出されている。敷衍すれば、経済のあり方への、業界団体を通じた民意反映も市場を通じた民意反映も、およそ個々具体的な利害反映のチャンネルというものは否定し、政治リーダーが天下り的に課題を設定し、リスクをいとわず強力にその解決に取り組む体制を提唱しているのである。

 注意深く読むと、今度の施政方針演説は、こうした哲学に貫かれていることがわかる。

庶民が直面するさまざまな重要問題が無視

 まず、この施政方針演説は、この国に生きる人々が暮らしの現場で直面するさまざまな具体的な課題をひとつひとつ積み上げて、その解決を図るという体裁をとっていない。したがって、多くの人が直面する切実な問題がしばしば全く触れられもしないですまされている。

 例えばこの演説の中には「高齢」という文字列はでてこない。「介護」という文字列は、コロナ禍の中のエッセンシャルワーカーの「協力」に触れたところで、「医師」「看護師」と並んで「介護職員」が出てくるところで使われているだけである。最も深刻な問題のひとつである、高齢化問題、介護負担や介護労働の問題が全く取り上げられていないのである。
 あえて言えば、「孤独・孤立対策」と題したわずか60字ぐらいの短文の中に込められているのだろうか。

 「年金」「老後」といった文字列もない。老後の生活保障の問題は、「資産所得倍増プラン」の裏に、国はめんどうを見切れないから自分で資産を貯めて備えておけという本音が透けて見える点に、関連が見られるだけである。
 医療については、デジタル化の中とコロナ対策の中で出てくるだけである。

 格差や貧困の問題についても出てこない。物価高対策は、「まずは、22年度第2次補正予算の早期執行など、足元の物価高に的確に対応します。今後も、必要な政策対応にちゅうちょなく取り組んでまいります。」という二行だけである。

 演説の締めの部分で出てきた、新潟でモノづくりを目指す学生は、将来の景況への不安を語らなかっただろうか。同じく鹿児島で和牛生産に取り組んでいるお母さんは、飼料高騰の中で子牛の価格が暴落し、天塩にかけた子牛を薬殺しなければならない畜産家が出ていることを語らなかっただろうか。

歴史の流れの認識からリーダーが天下り的に課題を設定

 この演説は、そうした市井の現場の声に目配りして集約するという体裁ではできていない。
 そうではなくて、まず、明治維新と「終戦」に続く近代日本の歴史の第三の転換点と現在を位置付ける、大上段に構えた歴史認識から始まって、「これまでの時代の常識を捨て去り、強い覚悟と時代を見通すビジョンをもって、新たな時代にふさわしい、社会、経済、国際秩序を創り上げていかねばなりません」と宣言する。そして、政治リーダーが強い決断力で天下り的に課題設定する形で、今後の政府の取り組みを語るという体裁になっているのである。その意味で、経産省の新産業政策の精神どおりになっているのである。

 だから、首相はこの冒頭で、「政治とは、慎重な議論と検討を積み重ね、その上に決断し、その決断について、国会の場に集まった国民の代表が議論をし、最終的に実行に移す、そうした営みです。/私は、多くの皆様のご協力の下、さまざまな議論を通じて、慎重の上にも慎重を期して検討し、それに基づいて決断した政府の方針や、決断を形にした予算案・法律案について、この国会の場において、国民の前で正々堂々議論をし、実行に移してまいります。」と言っているのである。すでに他からも指摘があるように、この文章では、「決断」のあとに国会の議論がある。「正々堂々」公開するというだけで、すでに「決断」はされてしまっている図式である。

 リーダーが見出した歴史の流れに「決断」の根拠がおかれているのだから、その「時代を見通すビジョン」を共有しない者による抵抗は、国会の場と言えど障害にしかならない。このような図式になるのは当然である。しかし、民間企業の経営者が判断を誤れば自腹が痛むので、慎重にリスク計算をする誘因があるのに対して、政治リーダーは判断が誤っても自腹は痛まない。よって、このような姿勢での決定は、過大なリスクを呼び込んで多くの人々に被害をもたらす危険を避けることはできない。

 思えば、大きな歴史の流れを根拠にしてリーダーが天下り的に政治課題を位置付ける姿勢は、「資本主義から社会主義への必然法則」なるものを根拠に政治方針を押し付けてきた共産党独裁体制の姿勢と同じである。反共プーチン大統領も、今は大きな神がかりの歴史認識の中で戦争を聖戦視している。どちらにせよ、独善的な決定が多くの人々に多大な犠牲を強いることになった。

 ミイラ取りはミイラになる。権威主義体制に対抗しようとその強みを真似ていくと権威主義体制に近づいていく。岸田演説は、軍事強国になって憲法を変えると言っているのだからなおさらである。この点は、新自由主義に代わる政策体系として支配体制側が世界中で採用しようとしている流れ全体にあてはまることなので、世界中の民衆と連帯して反対していかなければならない。

旧菅政権型路線を引き継ぐ供給サイド一辺倒の政策

 さて、経産省の新産業政策やその元になった欧米の学界の新しい議論が新自由主義と異なる大きな特徴は、新自由主義が供給サイドだけに着目する議論だったのに対して、再びケインズ派時代のような需要サイドへの着目を取り戻している点である。この点は全く正当であって、欧米では並行して左派の世界でも、ブレア=クリントン流の供給サイドだけに着目するワークフェアなどの政策に対して、近年台頭した新しい左派は、総需要を拡大する反緊縮政策を掲げて批判している。

 ところが岸田首相の施政方針演説は、経産省路線の国家主導の資源動員という権威主義的とも言える側面やキナ臭い側面は採用しながら、マクロ経済運営については総需要管理政策の視点を欠き、まったくもって旧菅政権型路線を忠実に引き継いだ、供給サイド一本の政策ばかりが並んでいる。

「需要拡大で人手不足に」と言わない賃上げ策

 そのことが如実にわかるのが、「新しい資本主義」の目玉的な位置で、比較的大きな比重をとって論じている賃上げ政策についてである。

 我々の立場からは賃上げのための政策でトップにくるのは、労働運動の活性化を手助けすることである。それがメニューに出てこないことは自民党政府としては当然だろう。しかし、労働運動も、全般的な人手不足になれば交渉力がつき、賃上げ闘争が有利になる。労働運動のないところも、人手が足りなければ賃金を上げてなんとか人を集めないといけなくなる。

 だから、総需要を拡大して雇用を増やし、全般的な人手不足が十分に進むところまでもっていくことは、賃上げを実現するための王道である。

 ところが、岸田演説の賃上げ論には、この視点は本当に皆無である。基本的なロジックは、「生産性を上げたら賃金が上がる」という供給サイドの論理である。企業の生産性を上げて、労働者も、「リスキリング」とか誰もわからない言葉を使っているが、要するに新しい技能を身につけるようにして、そして、「成長分野」に円滑に移動できるようにするというのである。

 需要が少ない中で、生産性が上がって少ない労働でも生産できるようになったら、雇用が減らされるだけである。雇用を減らさないなら生産が伸びるように売値を下げる(しかしライバルも同じことをするだろうから、結局生産は伸びないだろう)。どちらにせよ賃金は上がりようがない。総需要が少ない中では、労働移動しようとみんなで技能を身につけても、必ず椅子からはみ出る人々が出て、努力が無駄になる。そんなリスクがあることには誰も乗り出さない。

 そもそも世の中には大して技能が要らなくても、人々の暮らしを支える本当に大事な仕事をしている人たちがたくさんいる。豆腐作ったり、みかんのシロップ漬けつくったり、世の中になくなはならない生産をしているが、これ以上あまり生産性上昇の余地のない事業分野もたくさんある。こういうところが、つぶれればいいというわけにも、賃金が上がらなくていいというわけにもいかない。みんなもうかって、賃金が上がるようにしないといけない。そのためには、総需要が拡大して世の中全体の景気がよくなる以外にはない。

景気がよくなれば興ってくることを公金で無理やり

 賃上げの件だけでなく、全般的にこの施政方針演説では、「デジタルトランスフォーメーション」「イノベーション」「スタートアップ」などと、供給サイドの何か「スゴそー」なことばかり掲げて「やってる感」を出しているが、自らはリスクをかぶらない政府の担当者が、現場の情報も知らずに公金をかけても無駄を積み上げることになる可能性が高い。
 新しい技術の導入もイノベーションも起業も、経済見通しが不透明な中では企業はなかなか乗り出さない。経済が安定して好況が持続してこそ、安心してこれらのことに乗り出すことができるのである。
 特に、人手不足状態が持続すれば、労働生産性を上げるイノベーションは否応なく迫られる。そうなれば政府がわざわざ公金をかけて誘導する必要もなくなる。

 むしろ長期的には、企業が決して乗り出すことがない基礎研究にこそ、潤沢に公金をかけることがイノベーションにつながる。ところが、岸田演説では、「社会のニーズ(資本のニーズと読め)に応じた理工系の学部再編や、若手研究者支援も進めます」と言って、ますます目の前の要請にしたがった大学の実学化を進めることを表明しているだけで、基礎研究への言及は見られない。

 「スタートアップ」についても、「卓越した才能」だの「欧米のトップクラス大学の誘致」だの「世界に伍する高度人材」だのと言った言葉を並べているが、そんなすごい人たちがする起業しか想定していないということがおかしいのではないか。
 首相はここで、「今は、日本経済をけん引する大企業も、かつては、戦後創業の「スタートアップ」でした。戦後の創業期に次ぐ、第2の創業ブームを実現し」と言っているが、戦後の創業期に起業した人たちはそんなすごい人たちだったのか。普通の庶民が焼け跡でリアカーを引いて商売を始めたのではなかったか。
 志ある普通の庶民が誰でも起業して、安心してまっとうに食べていけるようにすることこそ、政治の責任ですべきことなのではないか。

 それは、十分潤沢な総需要のある好景気を実現すること以外にはない。

少子化解決の大前提は景気をよくすることのはず

 「最重要政策」「従来とは次元の異なる」と銘打った、こども・子育て政策も同様である。

 少子化問題の根本原因は、若い人々の所得が足りないこと、将来の生活に不安があることである。たしかに、演説でも「若者世代の負担増の抑制」とは言っているが、これはそれに続いて「社会保障制度を支える人を増やし、能力に応じてみんなが支えあう」とある通り、高齢者の負担を増やそうという、世代間対立を煽る話の一環である。

 そうではなくて、まずは経済全般で十分な人手不足が持続して、働く意思のある者は誰でもまっとうな賃金で働ける、将来も安心して働き続けることができると予想できることが重要である。
 あるいは、商売を始めようと思ったら普通の庶民なら大きなリスクなくでき、まっとうな所得を得つづけることができると予想できることが重要である。そうやってみんなが自分の望む人生設計をできる経済環境を作ることが、まず大前提である。それは総需要を拡大して雇用を増やすことによるしかない。

 それがなく、若い世代が貧困や将来不安の中に置かれたままならば、どんな子育て支援策をとっても少子化は止まらない。

中小企業支援策はなくやはり淘汰路線か

 それから、旧菅政権型路線の大きな特徴は、「新陳代謝の促進」の名のもとに、「生産性が低い」とされる中小企業や個人事業者を淘汰することを目指すところにあった。さすがに今回の施政方針演説では、「新陳代謝」などの刺激的な決まり文句は出てこない。しかし菅首相だって施政方針演説の中で「新陳代謝」などと口走るようなヘマはしなかった。よく中身を検討しなければならない。

 先述のとおり、この演説では、市井の人々が直面するさまざまな具体的な暮らしの深刻な問題が取り上げられていない。消費税10%とコロナ危機とコストプッシュに見舞われて、青息吐息の中小企業・個人事業の生業の問題もそうである。中でもコロナ債務返済期を迎える人たちの問題は大きいはずだが、触れられていない。

 そもそも、先述のとおり、賃上げのために生産性を上げるとか、生産性の高そうな新規なことばかりに公金を出すという話は、裏を返せば、生産性の低いところはつぶれてかまわないという話と読めるだろう。
 コロナ問題の箇所でも、医療的疫学的話題には触れているが、中小企業・個人事業の経営の問題には触れていない。そこで「GDP(国内総生産)や、企業業績は、既に新型コロナ前の水準を回復し、有効求人倍率も、コロナ前の水準を回復しつつあります」と述べているのは、もう特別な支援は不要と言いたいのかもしれないが、消費増税前の水準にはまだ遠く及ばない。

 「地方創生」という項目でも、地場産業を守るとか育てるとかいった話は全くでてこない。菅政権がよく語っていた、観光活性化や農業の輸出産業化の話はでてくるし、例によって明るい未来技術の話もでてくるが、ごく普通の庶民が今まで培った技能でコミュニティを支える生業をどうするかの話はない。

 その代わり、「さらには、地方への企業立地支援や海外からの人材・資金の呼び込み、官民連携によるスタジアム、アリーナ、文教施設の整備、地方議会活性化のための法改正にも取り組みます」と言っている。
 地域の外から、外資も含む大企業を呼び込もうと言うのである。結局、地場の中小企業が潰えさり、グローバルな大企業に支配される光景しか浮かばない。

 ちなみに、「スタジアム」「アリーナ」というのは、またぞろ例によって、通貨発行権のない自治体に、国と違って文字通りの借金をさせて、失敗したら決定者は自腹を切らず、文字通り住民税を財源に穴埋めさせようというあれだろう。「成功」しても、地域の小商店に向けた需要が、新施設に向けた需要に振り替わるだけで、地域経済にとってマイナスになりかねない。住民の間に真に内発的ニーズがあるのならいいが、国が上から旗を振ってさせるようなことではない。

一部のところだけに集中した支出では総需要の広がりはない

 総需要拡大策がないという批判に対しては、政府・自民党側からは、いろいろ掲げている施策のために資金を投下するのだから、そこから需要が波及するはずだとの反論があるかもしれない。

 演説の中で、将来の財政再建を明言しているのだから、どうせ増税でそのなけなしの購買力増分は吸収されてしまうだろう——という問題は、とりあえずおいておこう。

 問題は、少子化問題の解決の前提になるような普通の庶民にとっての雇用の増大がもたらされるような総需要の増大とはどんなものかということである。あるいは、普通の庶民が安心して起業できるような総需要の増大とはどんなものか。地場の中小企業や商店街の個人商店が元気になるような総需要の増大とはどんなものか。

 卓越した一部の領域や軍需産業にだけ集中して資金が投下される首相演説のやり方では、そのような広がりをもった総需要の拡大はかなわない。人々の懐をあまねく温めることによって、草の根から広範に興ってこる総需要の拡大でなければならない。

 それをもたらすのは、例えば消費税の減税、一律の給付金などである。そして、得られた所得を人々が安心して使い、コミュニティーの中でいつまでもお金が回り続けるように、医療や社会保障や教育の保障を充実させなければならない。これが今回の施政方針演説では全く欠落している観点である。

帝国主義体制建設に都合のいい総合

 結局まとめるとこうである。
 経産省路線からは、「国家間競争」に勝ち抜くために政治リーダーが裁量的に設定した課題にしたがって、一部の者だけをもうけさせて資源動員して上から経済管理し、軍事強国化を進めるという側面だけを受け取って、他面の積極財政の側面は受け取らずに軍事費負担を公然と庶民に対して求める。
 他方の新自由主義型路線からは、供給サイド一辺倒の経済政策姿勢と中小企業・個人事業淘汰の姿勢を受け取って、他面の「共存共栄的」な建前の自由貿易の世界像は捨てる。

 この「アウフヘーベン」は、東南アジア進出企業の権益を強大な軍事力を背景に守り、そこの労働者の作った製品を円高で安く輸入して、空洞化した国内の低賃金労働者を食べさせるという帝国主義体制の建設にとっては、誠に都合のいい方向性だろう。