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なぜ子供は「きちんと挨拶ができること」が重要視されるのか?

「挨拶が基本」と言う日本独特の神話

とある有名アスリートが、将来有望な子供を見極める基準として「しっかり挨拶ができる子」と言った。私はそれを知ってがっかりした。またかと。世界的なアスリートまでそんなこと言うのか。私はこの挨拶神話が嫌いだ。

そもそ海外にいれば、大きな声で「Good morning!」といちいち先生に言うことは求められない。目が合えばもちろん挨拶はするし、互いに元気?と聞いたりする。でも日本のように挨拶しないで通り過ぎた生徒に「挨拶しなさい!」と先生が言うことによって生徒があいさつしたのなら、その時点で自然ではない。強制されている。先生が挨拶したいなら、先生が生徒に声をかければよいのではないかと思うのだ。

挨拶ができる子は先生やコーチにとって安心である

きちんと挨拶をしてくれる生徒は先生にとって気持ちが良い。私も同じように感じる。挨拶してくれただけで「この子はいい子だな」と思う。でもそれだけだ。その子に眠る才能までそこから感じられるわけがない。たとえ全然あいさつしない子でも、目があったら「ニコッ」としてくれたりしたらそれはそれで面白いと思う。別にそれでいい。

犯罪者が「挨拶する人だった」は関係あるのか

よく犯罪者についてテレビ局のレポーターが近隣住民にインタビューを行う際、住民が「挨拶しない人だった」と言う。たしかに同じ階に住んでいてすれ違いざまにこちらから挨拶しても無視したり、以前はよく話す人だったのに急に挨拶もしなくなったのなら違和感を感じるかもしれない。でも、知らない人に毎朝はきはき挨拶する人なんてどれくらいいるのだろう。

犯罪者が犯した罪は当然裁かれるべきだ。でも挨拶と結びつける必要はないと思う。

挨拶は人を安心させるのに効果的

とはいえ私も挨拶の効果を完全に無視しているわけではない。見た目が怖そうでも優しく挨拶されるだけで「この人は安全だ」と感じる。挨拶は周囲に安心を感じさせるものだ。だから、挨拶一つできるだけで周囲に溶け込める可能性が高まる。挨拶にはこのような効果があるのでできて損はない。

でも将来のアスリートや、これから自身の可能性を様々な角度から試していく子供たちに「挨拶が何より重要」と教える必要があるのか。先生やコーチにかわいがられるだけではないのか。それは本当に将来を握る鍵なのか。

挨拶はコミュニケーションの一部であるが、コミュニケーションの全てではない。他の方法でコミュニケーションできればいいし、その子なりの方法があってもいい。元気が無いように感じれば先生から声をかければいいし、子供だって大きな声であいさつしたくない日もあるだろう。何がいけないんだと思う。

世界で活躍する人々の多くは、挨拶によって才能の片りんを感じると言うような先生やコーチに教わってきていないのではないかと思うのだ。


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