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BLOG 祖母の手記(写し)|父の思い出「松廼屋菓子店の発祥」


柘榴の花が咲く季節には、柘榴酒作りが上手だった祖母を懐かしく思い出します。

祖母の実父に当たる松廼屋菓子店の創業者を、祖母が、その「父」の娘の目線で思い出しながら描いた小品です。

曽祖父は、会ったことはない。けれど、わたしのルーツとしてリスペクトする存在のひとりです。

この曽祖父あって、このワタシあり。

"It's my gene."

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祖母の手記(写し)|父の思い出
「松廼屋菓子店の発祥」

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父の思い出

(一)松廼屋菓子店の発祥

父、五六作は五男に生まれ、成長とともによく家に仕えた。

天性というか生れつき器用で家の者にも他人にも頼まれれば快くしてあげるので大変喜ばれた。大工、左官、ブリキ屋、花作り、百姓と何でもやった。
昔は、半農半商といって大概の家で商売はしていても、自作をして生計を助けたものだ。

その頃手伝っていた店で、菓子製造卸小売の知識を身につけ面白くなって他の店で真似の出来ない品を次々に製造販売したので、店も大いに繁盛した。

二十八歳の時、縁あって、親類から嫁を貰い本家から別れて上新田に店を構え菓子製造卸を始めた。だんだんお得意も増え上宿の新店としては大変流行った。

菓子の製造は、砂糖、粉、飴などが主な原料だが、昔のことで飴がなかなか手に入らない。何とかして自家で飴造りをやりたいと考え、何かの本で麦芽から飴がつくれることを知った。

丁度菓子職人が来たので話したら「親方、それはうまい考えだ。大々的にやったらどうだ。俺も手伝うよ」と勧められて大いに勇気づき、大仕掛けに麦芽を作り煮詰めて冷却し堅飴にして売り出したところ、方々から飴売りの爺さん婆さんが仕入れに来て朝から大忙しで店は繁盛した。

とにかく何をするにも手間が無く、てんてこ舞いで母が手伝っているが
「こんなに忙しくては誰か頼まなければ」といっていた。
母は十八歳で嫁いできたが、機も織れずお針亊も習わずに専ら店番ばかりしていたので、帳簿付けやソロバン、お客さんの応対などそれはそれは上手だった。

菓子職人も三四人増やしたので、父が一々仕事場に顔を出さなくても祝儀や葬儀の引出物の注文にも十分応ずる事が出来るようになった。
商売の方も母が任され問屋さんが回って来ると、菓子原料を注文したりエ場の職人に品切れの菓子を作らせたり、毎日お店も工場もうまく切り回すので、父も安心して好きな絵を画いたり少しばかりやり始めた彫刻をしたりして店にはあまり顔を見せなかった。

母はよくお得意さんから「お内儀さんは後家さんかね」などと冷かされたが、それだけ父は母を信頼し母には一目置いていたようだ。

(二)趣味の絵画きはくろうとはだし

父は絵を画くことが好きで暇さえあれば自分の部屋に籠って絵を画いていた。

ある日、見知らぬ旅人風の人が訪れて
「私は東京の者だが、こちらのご主人が絵を画くことを来る道すがら聞きましたので、勝手ながらお目にかかりたく頼ねて来ました」
と言われるので父が会って見ると、一見悪るげの無さそうな人なので、自分の部屋へ通した。茶菓をもてなして色々話しているうちに、絵の話に移り父の絵の批評をしたりしていたが、だんだん話が弾みお酒を飲んだりして数日遊んで行った。

旅絵師が泊っている間、暇さえあれば絵を画いて師匠に急所を教えてもらい随分と色々覚え、だんだん人にも見せられるような絵を描けるようになった。

今から四十年ほど前のことだが、文部省の文展に一度出品してみようと決心し、画材を探しているうちに裏の物置小屋の屋根にカボチャの蔓が這い熟れた実が顔を出しているのを見付けた。
丁度八月のお盆過ぎの頃で成熟した見ごろのものだった。

「あっ、これだ」とばかり手をうった父は、紙と鉛筆を持って来て早速写生を始めた。
何枚も画き直してようやく本格的に絹本に画き上げ文展に出品した。

勿論賞を貰うつもりも無く入選することも考えてはいない。唯自分はこれだけのことが出来るという自信を得たわけだ。

一か月ほど経って、文部省の文化課から父のもとへ「貴殿の絵が入選しました。おめでとうございます」との通知が届いた。
当人はさほど嬉しくも感じないそぶりだったが、家の者は大変の喜びようだった。有名の先生について習ったわけでなし、本当に独学で画いただけに私は父を賞賛せずにはいられない気持ちだった。

(三)父の彫刻

父の室でコツコツと聞きなれない音がするので、行ってみたら桜の木を鑿で彫っていた。

何を作るのかと聞いたら、返事をするのも面倒くさそうに一生懸命で、聞こえぬふりをしていた。四五日経った頃「お茶に下りてこんかねえ」と呼びに行ったら、それはそれは結構な牛が彫り上げられて、早速磨きを掛けていた。

「うまくできたね。床の間へ飾ったらいいね」 と言ったら
 「まだまだ、これからが大変なのだ」とは言っていたが、 いつも難しい顔をしているのにその時はご満悦のようだった。
とにかく彫刻すること以外は何事も見ざる聞かざるであった。

父は、時折野外におもむき山や川の景色を眺めながら酒を酌むのが何より楽しみだった。

ある朝、しばらく家に閉じこもってばかりいたのでたまには釣りに行って来るとビクを肩掛けし釣り竿を担いで出掛けた。

日が西山に隠れる頃家に帰って来た父のビクの蓋を開けたら中身はハヤやフナでなく茸のシメジやハツダケがいっぱい入っていた。
職人たちは魚がみんな茸に化けたなどと言って大笑いしていた。
父は 「今日のハヤはロが奢っていて持って行った餌に少しも食いっかなかった」 と言い訳していた。

父はまた書も上手でよく他所から入営兵士のお祝いの幟(のぼり)の揮毫を頼まれた。

そんな時、大きな硯に水を差して墨を磨るのが私の役だった。
父は自分で作った箒のような筆で幟に一気に 〔祝入営 山川 廣様〕 などと書き上げた。多い日には四五本も頼まれることがあった。

時には石屋さんから墓石の字を頼まれることもあった。
「お宅の旦那さんの字は上手だし彫り易すいので是非お願いします」と頼まれると心よく引き受けて直ぐに書き上げるので遠方の人からも頼まれることがあった。

いつか父が彫刻をしていると常客の方丈さんが遊びにおいでて仕事場に上がり父の仕事ぶりを眺めなから
「よく根が続くね。中々骨の折れる仕事だなあ」 と頭を傾げていた。

身辺に散らかっている道具を見ても鑿だけでも十五六本もあってそれぞれ使い用が違うことを知り、方丈さんもつくづく感心した体だった。
「ところで今日はお願いがあって参ったのですが、清水さんの彫られた牛が中々よく出来ているので、お寺の床の間へ飾りたい。是非譲って貰えないか」と申し出た。
「私の干支が丑年ですからこの置物は家の床の間に飾っておきたい。お譲り出来ません」
父に断られた方丈さんは
「そういうことなら牛は諦めますが、実はお寺の欄間に彫刻の額を掛けたいので清水さんにひとつ記念になるような彫刻をどうかお願いしたい」と別の依頼を切り出した。

「お寺さんにはみんなご厄介にならなければならない立場ですのでお断りするのも何かと存じますが、絵と違って彫刻はまだ始めたばかりで欄間などは私にはとても大物で手に負えません。それに材料が適当のものがあればよいのですが、まあ折角の方丈さんのご希望なので即答は出来ませんが二三日考えさせてください」
そう答えた父はあちこちの材木屋を見て歩き幸い適当な材料を見付けた。

ひとつ頑張ってやってみるかといよいよ本番になり朝からコツコツトントンと鑿の音も高らかに一生懸命彫っていたが、思うようにいかぬときは酒を飲んで酔い潰れてしまい、そんなことでなかなか仕事は捗らず幾日か空しい日が続いた。

母は 「彫刻などというものは気の長い人でなければ出来ないのにお父さんは気短い性格でよくまあこんな仕事を引き受けたものだ」とロでは言っていても父の顔を見るとご機嫌をとって
「毎日大変だねえ。少し按摩にでもかかったらどうかね」などと言った。
「按摩よりも熱燗でも付けろ」と言われて母は酒肴をお膳につくろって出し、「もう大分出来たかねえ」と聞けば「そんなに飯を食うように早くはいかねえや。それより御岳そばも作れ」などと言って威張っていた。

冬の寒い間は手がこわばって彫り仕事も捗らず時には工場へ入って菓子を作ったり絵を画いたりしていた父は暖かくなった頃お寺から依頼された龍のすかし彫りを再開した。

精魂こめて彫り進めようやく全体の形が見えて来た。これからは遠近の程を確かめて鑿で直しトクサをかけて磨くのだがこれが大変で龍の顔の目玉や髭の細かい部分に全部磨きけ、雲間から現れる龍の顔がこの彫刻の一番の見所なのだと人念に仕上げていった。

ようやく完城したのでお寺に知らせたところ早速父の仕事場を訪れた方丈さんは欄間の彫刻を一目見てウーンと唸るように声を上げた。

雲間から龍の顔がヅンと現れ、眼は爛々と金色に輝き、ロは頭まで裂けているかの如く髭は大魚の鰭を八つ裂きにした如く、今にも跳びかかろうとする足は鋸の如くに見えて、その妖相に方丈さんも思わず後ずさりする有り様だった。

「清水さん。本当によく出来たね。驚きと溜息で一瞬ものも言えなんだよ。こんなに立派に出来るとは思わなかったよ。清水さん、本当にありがとう」とお礼を言われたのだった。

(四)父の終焉

夏の或る日、幾日か降り続いた雨で家の裏の用水路に何時になく水が溢れていた。

そこで私が洗い物をしていたら鰻がぞろぞろ下って来たので私は大声で工場の職人を呼んで鰻を捕まえてもらった。大騒ぎしながらようやく五六匹捕まえ、仕事も一段落した後なので早速きんつばを焼く炉で蒲焼きにしてタ飯のおかずに一串ずつ出した。

明日は父が自分の好きなこととは言いながら長い間仕事場に籠って絵を画いたり彫刻をしたりして心身ともに疲れたから少し温泉に湯治に行き、湯に入ったり川でヤマメでも釣ったり山の景色を写生したりするため一週間ほど留守をすると言うので母は着替えや食べものを用意し、ウナギの蒲焼きも包みに入れていた。

翌朝、乗合馬車で出掛けた父を、母は店の前で馬車の見えなくなるまで見送っていた。

「お父さんも久し振りに山中の静々した處でのんびり静養しているだろうね。あさって頃は帰ってくるかしら」などと噂話をしていたら突然温泉の主人から電話がかかってきた。

「清水さんが急病ですので直ぐにこちらへ来て下さい」とのことである。
家中びっくりして親類へ知らせ五六人で山中の温泉へ駆け付けた。部屋に入り病人に声を掛けたがひどい苦しみようだった。

山の中で近くに医師もいないしどうしようもなく皆で体をさすってあげるのがせいいっぱいだった。
急性の胃痙攣が起きたのだろうと持って来た薬を飲ませたが効果がなく苦しみ続け、とうとう医師も間に合わず息を引きとった。

昔から丑年の人は鰻を食すと命取りと言うことを聞いていたが父の急逝を見て全くの迷信とも思えない。

父が今少し生きておれたら思い残すことも無いように色々好きな仕事も出来て世間の人も認められる作品を遺すことが出来たろうにと思うと返す返すも残念でならない。

追記

私がこの起稿を思い付きましたのは亡き父が何事につけても人より優れた技倆を有し、世間の人からも重宝がられておりましたのに、命運あしく急逝し後世に何の記録も遺されず空しくあの世に去られたことはまことに残念でならないのです。

埋もれ木の花咲くこともあるべきに最早その娘が八十路を迪ろうとしており今ここに記さければ永遠に消え行く露と変わります。
恥ずかしながら過ぎし日の父の面影を偲び父への敬慕の思いを込めて拙き文を記した次第です。

- 完 -

祖母の手記(写し)|父の思い出「松廼屋菓子店の発祥」

この小品は、1988(昭和63)年10月6日に亡くなった祖母が、生前、書きためて、こつこつと山梨日日新聞の読者投稿欄に投稿していたという原文から作成された手元に残る冊子となった祖母の手記の写しです。

孫のわたしが言うのもなんですが、祖母の手記、美文です。もしも、大学に行く前にこの文章を読んで感ずるところがあったなら、自ら祖母の専属マネージャーになり、祖母が小説家デビューして小説を書くのを手伝いたかったなー。。

祖母の手記の中に曽祖父が彫ったという龍の欄間の描写があるけれど、もしかしたら、それ、わたしも直接見たことがある。
あるお寺の欄間がそうかもしれないという推測しかないのですが、その欄間の龍は、わたしの目にはまるでその場で生きている不思議な生き物のように映りました。

その龍の木彫像は、欄間と言っても奥行きがたぶん30センチメートル以上はあって立派な梁のような木枠の中で、普通に3Dの立体の龍が舞い踊るように体をくねらせながら、凄い迫力の美しいお顔をして浮かんでいるのです。

素人が彫ったものとは思えなかったけれど、もしかしたらこの巨大な龍の欄間が、祖母が手記の中で描写したあの龍なんだろうなと思って眺めていたことがあります。
その木彫の龍は、美術品に例えると長沢芦雪の「龍図」襖6面みたいなお顔の龍で、この襖絵以外の顔ではなかった。ほんと、素敵だったんです。

紀州串本 無量寺
長沢芦雪筆:紙本墨画「龍図」襖6面/天明6年(1786)
和歌山県ホームページhttps://www.pref.wakayama.lg.jp/bcms/prefg/000200/nagomi/w28/16_17/index.html

串本無量寺|収納品のご紹介
本堂 襖絵・壁画 室中之間 長沢芦雪「虎図」「龍図」
http://muryoji.jp/museum/room03/index.html

ひいじいちゃん、スゲーな。って言いたくなる。
(わたしが絶対使わない言葉遣いだけど...)

制作:滝沢幸穂
更新日:2020.02.26

曽祖父のエピソードを、祖母の目を通して見ながら、
曽祖父と自分とを比べてみることはおこがましい。

「こんな、ヘタレなひ孫で、ごめんm(__)m」

と言いたい。
けれど、何かに向かって真っすぐに集中していくときの…、何ていうの、

モティベーションというか、リビドーの、その覚悟の勢いの部分で、

わたしも20世紀後半から21世紀初頭の社会環境への適応の努力はしてきたけれど、脳のエンタープライズの部分に曽祖父が多少は発現しているらしく、環境適応型の行動をとろうとしても、腕を無理に前に伸ばそうとしても、中神経系の中で曽祖父母が発現している当たりが、私の腕を引き戻したり、するんだよね。

じゃあ、こっちのほうに動こうとか、何とか環境適応型の行動をしようとするのだけれど、足を前に進めたいのに、グッと後ろに引きたがるとか、

もういいや、こっちに覚悟を決めて走り出そうとすると、

「イケーッ❣!!Go, Go, Go」

って感じで、爽快感をもって全速力で走りだしたくなったり、

わたしは、けして挙動不審なひとではないのだけれど、

どうしても、曽祖父母が何人かは中枢神経系に発現しているのを否めない気分になってきた。40歳代後半だったけれど。

きっと、みんなも、そうだよ。

何か迷ったときは、もしも祖父母が生きていたら、

さりげなく、その人生の歩みを聴きだしてみるといいよ。
行動の選択の精度が上がると思う。

祖父母が、あなたという孫を持つまでに至った、サクセスロードは、きっと君たちのサクセスロードのヒントになると思うから。

宗教的な背景で育っていれば、たぶん、神様がそうやって自分の行動や造形を形づくっていくことが、国民全体の共通の価値観の認識になって安定するのだろう。
けれど、わたしは、宗教教育を受けてきていない。みんな、今はそう。

だから、個人個人の衝動的な行動とか、もっとも自分の認知の大きな部分を占める社会的つながりとか、メディアに、行動の選択を引きずられる。

いいことではないし、目に余る悪辣な仕草をするバケモノみたいな輩が多い。

躾が必要なレイヤーの人たちがそうなっているけれど、彼らにも親はいる。祖父母はいるし、曽祖父母はいる。

その自分を生み出した多くの祖先のサクセスストーリーのその先に、君がいることを思い出すと、それが、なにかの社会的行動への共通の価値観の気づきと、自分の取るべき仕草への道標になるかもしれないと思う。

あなたの体の中には、少なくとも合計8人の曽祖父母が物理的に発現しているから。
8人の曽祖父母を社会が生かして子孫を残させ、そして、社会の中で生かされて彼らは生き、君を得ることができたから。
8人の曽祖父母が彼らの人生の中でとった行動の選択を基盤とした波乱万丈のサクセスストーリーと社会的なハッピーエンドの先に、

君は誕生して、今そこにいるのだから。

あるいは、端的に言うと、

「あなたは首狩り族の人喰い人種として、
突然、何の脈絡もなく木の股から生まれたのか」

ってことです。しばしば、あなたは何者かって思う事はある。

あとがき|

祖母の思い出

祖母の語る昔話は「語り聞かせ」だった。
「読み聞かせ」なんだけれど、手に、昔話の本を持っていないんだ。
畳に添い寝してくれて「昔、昔、あるところに・・・」って、語り始める。

5種類くらいのストーリーがあった。
きっと、若い頃、子供にたくさんたくさん読み聞かせたから、全部、暗記していたんだ。

それを、わたしは聞いて、同じところで、ケラケラ笑って、昔話が最後まで行ったら、

「おばあちゃん、もう一度、もう一度、笠地蔵の話をして」って、

口頭で言うんだよね。

そうすると、自動的に巻き戻って、祖母が最初から話す。

それで、また、同じところで、ツボにはまって、ケラケラ笑って、そうやって、生後1000日間で出来上がる中枢のエンタープライズが形成されていった。

ですから、わたしの中枢神経の「高速道路系」エンタープライズは、間違いなく、日本昔話系列です。

祖母が生きているうちに、録画しておけばよかった。

#TellStoryDay

“Hey Google, tell me a story.”📚

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父の思い出

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- Another Epilogue -

Memories

A table with beach umbrellas was placed in the backyard of my grandmother's parents' home, Matsunoya, and it was a festival day.

A circus set up a tent in the temple grounds that continued from the backyard, and the people in the town made a long line to see the circus inside the tent.

As a young girl, I lined up in a long line of people to the tent inside the temple grounds from the backyard. In turn, I entered the tent and saw the mysterious circus world.

After the show, I left the tent, and I was also the only person at the end of the town line. 

Such memories come back to my memory. A mysterious song. Shostakovich's waltz.

André Rieu - The Second Waltz (Shostakovich)
via @YouTube André Rieu
André Rieu performing Shostakovich' "The Second Waltz" live in Maastricht, The Netherlands.
https://youtu.be/vauo4o-ExoY

I like it!

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- 戦後|その一つの記録と終焉 -

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お会いしましょう

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