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雨の日の物語2

 雨から連想する本をテーマに絵を描き、その絵を元にしてまた別のお話を作り出す試み、第2弾です。詳しいことはこちらにあります。

今回は少し長いですが、良かったらご覧ください。



雨の日の物語2


 その雨の夜、わたしはぼろぼろに疲れていました。

 わたしはハンバーガー屋で働いていましたが、その日は特におおいそがしでした。
 一度に20個もハンバーガーを注文するお客さんや、うっかりコーヒーを床にぶちまけるお客さん、「はやくしろ!」と怒鳴るおじさんまでいました。その上、突然の風邪でバイト仲間はひとりお休み、代わりの人もおらず、店長もお客さんもみんなイライラしっぱなしの1日でした。

 疲れているならまっすぐ家に帰ればいいのに、なぜかわたしは傘をさして夜道をとぼとぼ散歩していました。もしかして、体ではなく、心のほうが疲れていたのかもしれません。そんな違いもわからず、どうでもよいくらいに、うんざりしていたのです。

 普段の仕事帰りには、スーパーかコンビニかドラッグストアにしか寄り道しません。丸一日働いたわたしには、ポテトやお肉の油の匂いがしみついている気がして、小さなお店に行くのは気が引けました。
 でもその夜はどうしても、暗くて静かで暖かい場所に行きたかったのです。冷たい夜の雨にハンバーガー屋のなごりが全て洗い流されたころ、わたしは馴染みの喫茶店のドアを開けました。

「あ、まちがえた。」
 ドアを開けた瞬間、わたしは身をすくめました。喫茶店だと思って開けたドアの向こうには、高い本棚が一面に並んでいました。
「おかしいな、確かにここは……」
 ドアを開けたまま一歩下がって外を確認しましたが、やはりここはわたしの知る喫茶店の店先です。
「もしかしてあの喫茶店はつぶれちゃって、本屋になったのかな。しばらく行ってなかったから。」

 そっと外に出ようとして、わたしはあることに気が付きました。本棚の先の終わりが見えないのです。
 壁一面の本棚は、どこまでもどこまでも奥に向かって続いていました。中央には本の表紙を見せて並べたテーブルがありましたが、それもまた、奥に向かってどこまでも続いていました。
「そんな、うそ」
 わたしは小声でつぶやくと、思わず本屋の中に一歩足を踏み入れていました。
 お店はまるで何百メートルも、何キロも先まで、細く長く続いているようでした。このお店の裏には古い木造アパートが建っているので、そんなことがありえるはずはありません。騙し絵か、鏡を使った仕掛けのようなものだろうかとも思いましたが、どんなに目を凝らしても奥に壁があるようには見えません。

「…すみませーん」
 おそるおそる声をかけてみましたが、わたしの声はお店の奥に吸いこまれて消えてしまいました。本屋はしんとしています。そもそも、店主がいなければ、ここが本屋なのかどうかも定かではありません。
 そのとき、わたしはふいに頭がくらっとしてよろめきました。なにかが記憶を強く刺激します。わたしはこの景色を知っている。幼い頃に見たなにか、胸がドキドキするなにか、ずっと忘れていた夢のような・・・

「モモだ!」
 思わず大声で叫んでしまいました。今、目の前に広がっているのは、幼い頃に大好きだった本「モモ」の表紙の絵、そのものでした。
 格子柄の床も、どこまでも続く奥行きも、棚の上のロウソクも。そうだ、確かにこんな風でした。
 ただ1点だけ、でも最も大事なことが違っていました。ここでは本が並んでいる棚には、本当なら時計があるはずでした。

「なんだっけ、あの「時」を司る不思議な・・・そう、マイスター・ホラだ。」
 わたしはぶつぶつとつぶやきながら、本棚と机の間をそっと進みました。
「あのカメ、背中に文字を光らせる・・・カシオペイア!」
 記憶の引き出しが開いて溢れ出しました。十代の頃に何度も何度も読み返した、わたしの一番大切な本、モモ。どうしてずっと忘れていたんでしょう。
 あのおそろしく冷たい灰色の男たちと、葉巻のけむり。心優しいベッポと愉快なジジ。美しい時の花。そしてなにより、賢くて勇敢なモモ。ああ、わたしはずっとモモになりたかった!

「でもどうしてここには本が並んでいるのかしら。」
 わたしは初めて本棚の本の一冊一冊に目をやりました。するとどうでしょう。お店の入り口から数メートルのところまでは、背表紙にタイトルが書かれていますが、そこから先の本は全ては真っ白です。ためしに白い本を一冊抜いてパラパラと開いてみましたが、中身も真っ白でした。
 そしてタイトルのある本たちは、よく見るとわたしが知っている本ばかりでした。小さい頃好きだった絵本や今まで読んできた本はもちろん、両親が読んでいた本や、学校の授業で少しだけ読んだ本、読み通せなかった本も並んでいました。夏目漱石の「こころ」やドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」なんかも並んでいたので、間違いありません。
 
 つまり、ここに並んでいるのは、わたしが今までになんらかの形で出会ってきた本たちということです。そして真っ白い本たちはきっと・・・
「これから出会う本、ということ?」
 わたしはため息を漏らしました。出会う本、という表現は間違いだったかもしれません。これから出会う可能性のある本が、永遠に、消失点まで並んでいるのです。
 わたしはまた頭がくらくらして、宇宙の端っこを想像したときのような感覚に陥りました。こんなにもたくさんの未知が広がっていることは、どこかおそろしく、そして清々しくもありました。

 真ん中のテーブルの一番目立つところに、「モモ」が置かれているのを見つけました。それは紛れもなくわたしの「モモ」でした。端っこが擦れた箱、辿々しいアルファベットで書いたわたしの名前「MOMOKO」。十代の頃のわたしは、自分をモモに重ね合わせて、何度も冒険し、何度も救われていたのでした。
 わたしは本を一度ぎゅっと抱きしめて、ページを開きました。そしてページの間に顔を埋めて深呼吸をしました。懐かしい紙の匂いがしました。
 
 床に座って本を読み始めると、なんだか可笑しくなってきました。昼間の怒鳴っていたおじさん、きっと灰色の男たちに時間を盗まれているんだ。イライラしながら並んでいたお客さんも、店長も、みんな。くっくっと笑って、そしてはっとしました。灰色男たちにせっせっと時間を受け渡しているのは、わたしもまたおなじかもしれない。

 夢中になって本を読んでいると、だんだん心地よくなって、うとうとしてきました。暖かくて、ろうそくの明かりが揺らめいて、わたしの体は昼間の疲れでずっしりと重くなっていました。あともう少し読めば、マイスターホラと出会えるはずなんだけど・・・

「お客さん、大丈夫?」
 声をかけられてわたしは飛び起きました。ここはいつもの喫茶店の隅っこの席でした。
「お疲れなようだったからそっとしておいたんだけど、冷えちゃうといけないと思ってね。」
 喫茶店のマスターが心配そうに言いました。
「ごめんなさい!わたし、知らない間に……」
「いえいえ、起こしちゃってごめんね。」
 まだぼんやりした頭で記憶をかき集めながら机の上を見ると、箱入りの「モモ」が置かれていました。
「マスター、この本は?」
 驚いてわたしが聞くと、マスターは困った顔で答えました。
「さっきまでいたおじいさんがね、あなたにって置いて行ったんだよ。お知り合いですか?って聞いたら、そんなところですって。
 名前を聞いたんだけど、よく聞こえなくてね、確かホラだかオラだか・・・」
「ああ・・・」
 わたしは思わず涙が出そうになるのをこらえると言いました。
「その人、知っています。」

 その擦れた箱入りの本を、もう一度ぎゅっと抱きしめました。


この絵は元々は辻山良雄さん「ことばの生まれる景色」(ナナロク社)を読んで描いた絵です。


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