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短編小説「望郷」

 この山は眉山。どっから見ても眉に見えるけんな、眉山というんよ。きれいな形だろ。こういう眉の人を阿波美人っちゅうんじょ。徳島は七割がたが山でな、四国山脈が続いとうだろ。あすこの山から吉野川が流れて来とんよ。日本三大暴れ川のひとつでな、暴れたら怖いでよ。飲み込まれるけんな。ほなけんど徳島は吉野川のお陰で水がようけあるだろ。水に困らん。ごっつい贅沢なことでよ。
 ほて、ここは徳島平野。なぁんもないって地の人は言よるけどな、よう見つけんだけよ。徳島っちゅうたら、吉野川のお陰で食べもんが美味しい。何と言うても水道代が安いわな。よそ見てみ、水道代や飛んびゃがるほど高いで。それやのに誰っちゃ自慢せぇへん。産まれた土地に満足しとうって堂々と胸張って言うたらええのにな……。  
 
 美々は故郷の地図を広げ、指をさしながら祖母の口真似して独りごとを言った。秋分が過ぎたのに、ここ大阪の夕刻は風が止んで湿った空気が漂っている。流行病が美々の帰省を止めているのだった。
 新しいものを上手く取り入れられない不器用な故郷を思い出すだけでも、美々にとっては一時の清涼剤になるものだ。  
      
 昨夜から明け方にかけてひとしきり雨が降った。美々はベランダの紫陽花の植木鉢を傾けて、雨水を流した。小さな花弁から雨粒が滑り落ちてゆくのを見て、紫陽花は雨粒がよう似合う、と思うのだ。鉢の下に一匹のダンゴムシを見つけて鉢をずらして置いた。
 ダンゴムシは丸い体をじんわり開き、十数本の足がもぞもぞと動きだした。美々は息をひそめて甲羅が広がってゆく様子を待っていたが、途中、動かなくなった。心配になったので指先で甲羅を二回突いてみると、足が動いて甲羅が丸くなった。まだ生きとるわ、と思うと安心した。美々はダンゴムシをそのままにして、洗面所で手を洗った。鏡に映る美々の顔にある眉間のほくろを見た。ずっと見んふりしてきたけどやっぱり目立つわ、とため息をついた。 
 ほくろは十代の頃、薄茶色の点だったのに二十年経つと随分大きくなった。色も濃くなりぷっくり膨らんでいる。物差しで測ってみと直径三ミリあったので驚いた。ほくろをじっと見つめていると、先ほどのダンゴムシがのめり込んでいるように見えて気味が悪い。すでに前髪でも隠せなくなっている。
 その夜、帰宅した夫に「ほくろ目立つ?」と訊いてみると「いいや。そんなもん、気にするほどのことやない。他人はそこまで見てへんって」
 夫は息を弾ませながら靴下を脱ぎ、にんまりとした。
 美々だけが気にする一方で他人はそこまで気にしていないのなら、悩む必要はないだろうと、一旦はそう思い直すのだけれど、なにしろほくろは成長して3ミリあるのだ。それにマスクもいけない。ほくろがますます目立つ原因になっているではないか。
 「いっそのこと、この大きいやつ、取ってしまおうかしらん」
        
 次の日、美々は去年通ったことのある、皮膚科の優しい医師を思い出した。あの先生にほくろが取れるかどうか聞いてみようとひらめいて、早速、病院へ向かった。
 「久しぶりですが、どうしましたか?」 
 「ほくろが邪魔なので取って欲しいんです。取れますか」
 医師は虫眼鏡を取り出してほくろに近づけた。美々はほくろがよく見えるように前髪をかきあげ、目を閉じて、全神経をほくろに集中させる。
 「邪魔なら取りましょう取れますよ」
 「本当に取れるんですか」
 「取れますよ」
 へぇーと思った。へぇー以外言葉がでない。
 医師は紙にほくろの絵を描き、除去手術の説明を始めた。
 「除去手術には二通りあります。一つは根元から抉り出す方法。根元から抉り出すので皮膚の表面にわずかにメスの跡が残ります。もう一つは表面だけ削る方法。削った跡が丸く灰色に残ります。どっちにしますか」
 医師はペンで二つの絵を丸く囲みながら美々の答えを待っている。美々はもちろん根こそぎ無くしてもらいたいのだ。
 「抉り出してください」
 「わかりました」医師は二度深く頷き、看護師に「手術の予約をお願いします」と言い渡した。 
 ほくろ除去手術は二週間後と決まった。
 病院を出て大通りの信号待ちをしているとき、美々はふと考えた。誰にも相談せずに決めて良かったのだろうか。せめて夫には決める前に相談した方が良かったかも知れない。だって、このほくろが本当に無くなってしまったら、周りはどうだろう。たとえば久しく会っていない友達はわかるだろうか。「ほんまに美々?」なんて訊かれるかも知れない。それに美々が事故に遭って身元を証明する際、夫や両親はほくろのない美々を確認できないのではないだろうか。
 美々が行方不明になったとして、警察が美々の顔写真を持って捜査する際    
 「このひと見かけませんでしたか」と訊けば、
 「ああ、ほくろ。見ましたよ」と答える人がいるかもしれない。
 顔面神経痛になってもほくろがあるから美々だとわかる。運転免許証やマイナンバーカードの写真にもほくろがあるのだから、ほくろを取ったら本人を証明できる書類がなくなってしまうんじゃないか。その時、家族はどう対応するだろうか。美々を他人だと思って追い返したりはしないだろうか。そんなことを考えていると、幼い頃に見た人形浄瑠璃がよみがえってきた。
 
『アーイ、トトさん名、十郎兵衛
カカさん名、お弓と申します』

 人形浄瑠璃の演目『傾城阿波の鳴門』では、両親と三歳で生き別れになったお鶴が、大阪に住む両親を探すために徳島から西国巡礼に出る。巡礼の途中、お鶴は母親のお弓に出会うが母親だとはわからない。むしろわかるのはお弓の方だった。お弓は「もしや」と思い、お鶴の前髪をそっとかき上げる。額にはほくろがあった。ほくろは我が娘の証である。

『疑ひもない我が娘と、見れば見るほ 
ど雅顔、見覚えのある額のほくろ
扨ても扨ても世の中に親となり子
と産まれるほど深い縁は無けれど
も、離れがたなき憂いき思い
それと知らねど真の血筋 
コレいま一度こちら向いてたも』 

 母親のお弓のせりふである。浄瑠璃は三味線と共に義太夫が登場人物のせりふを語り、物語を盛り上げてゆく。人形の表情は眉毛と口の開閉ほどだが、義太夫に合わせて人形使いが人形の人格を作り上げ、感情を上手に表現するのだ。
 次第に美々の脳に浸食してゆく女義太夫の声は、お弓がお鶴を我が娘とわかった時の、自分が母親だと名乗れないもどかしさ、お鶴を抱きしめたいのに抱いてやることもできない心情が伝わってきた。その瞬間、美々にとって人形は血と体温を持った人間に変わったのだ。小学生の美々は涙が出た。周りの生徒は誰ひとり泣いていない。美々は恥かしくて指先で目脂を取るふりして涙を拭いたのだった。


 もし、お鶴にほくろがなかったら、お弓は我が娘と断定できなかったのだろうか。そう考えるとほくろはまさに美々の証のように思えてならない。ほくろがあるからこそ美々ではないのか。
 家に帰ってベランダを見ると、昨日のダンゴムシはそのままだった。同じ位置で胴体は半開きのままである。ダンゴムシは太陽に当たって静止している。美々は満開の紫陽花の横で動かないダンゴムシを見て寂しいと思った。 
          
 「やっぱり止めようかしらん」
 その夜、美々は夫に医師から聞いた除去手術の話をした。夫はふうん、と頷いて言った。
 「そんなもん、取ったらええねん」
「ほくろが無くなったら私とわからんかも知れん」
 夫は靴下を脱ぎながらにんまりと笑った。
 「そんなことあるかい。誰でも美々やとわかる。俺はわかるで。取れ、取れ。取ってしまえ」
 夫は脱いだ靴下を自分の鼻先に当てて、臭いを嗅いで「うわ、くっさっ」と言うと、フンと靴下を美々の顔面に近づけた。美々はなるたけ少なく臭いを吸い込んだ。「くさい?くさい?」夫が嬉々として訊くのものだから、少し大げさに「うっわっ、くっさっ」とやってあげた。
 「せやろ、くさいやろ」
 夫のくさい足は一日頑張って働いた臭いだもの、仕様がない。くさい臭いを共有する夫婦の遊びは、いつから始まったのか定かではないけれど、夫はこの遊びを大変気に入っている。
        
 二週間後、手術室の寝台に仰向けになると看護師が目をくり抜いたガーゼを顔に乗せたので美々は目を閉じた。麻酔を打ってのち「始めます」と医師が言うと眉間に鈍く重たい感覚があった。メスを入れて、今、医師がほくろを抉っているのだろうと想像してみるが痛みは全く感じない。手術はすぐに終わった。看護師がガーゼを外したので目を開けると「どうぞ」と渡してくれた手鏡を覗いてみると、眉間には肌色のテープがぎっしり貼ってある。これではほくろがあった方がマシではないか。マスクをかけると、美々の顔は自分の持ち物ではないように思えた。
 医師が透明のプラスティックケースを美々に見せて「ほら、取れましたよ」
 抉り取ったばかりのほくろが釣りのウキみたいに食塩水に浮いている。円錐形だった。抉った証拠である。  
  
 美々は病院を出て、横断歩道で信号を待っていると、行き交う人々は美々の顔を見るなり、見てはいけないものを見てしまったというように、サッと視線を反らすのだった。何故なのか不思議だったけれど眉間のテープを思い出し、さぞかし奇妙な顔だろうと察した。
 信号が青になり、歩き出すと横断歩道の先に陽炎が漂っている。信号機の赤や青や黄色が滲んで見え、炎となった途端、美々の耳に、また女義太夫の声が響いたのだった。 
 あのとき、確かに家は燃えたのだ。わずか九歳のお鶴が徳島から両親を探しに大阪までやって来たというのに。
 或る日、お鶴は西国巡礼の途中に父親である十郎兵衛の家に行き当たった。十郎兵衛はお金に困っており、お鶴が持っている小判をせしめようとする。お鶴は祖母に沢山の小判を持たせてもらっていたので、

『小判ならたくさん持っている
婆さまがくれた小判がある
ここに小判が、小判が……』

 お鶴が小判、小判と大きな声で何度も言うので、十郎兵衛は近所に聞こえるのを恐れてお鶴の口を塞いだ。

『コリヤ、やかましい、やかましい 
近所に聞こえる』

 我に返った十郎兵衛が娘を見るとすでに息絶えていたのだった。お弓が帰宅したので十郎兵衛はお鶴を布団で覆い隠した。
 そんなことも知らないお弓は、お鶴に出会ったことをはなし始める。十郎兵衛はさっき自分が手を掛けた娘がお鶴だと確信して、お弓にことの次第を打ち明けたのだ。

『コリヤこらえてくれよ女房と
親はそれにひきかえて
むこうつれなう追い返し』

 お弓が息絶えた娘を見ればお鶴だった。母親だと名乗ることができずに追い返したのだと十郎兵衛に告げる。

『死骸の顔に我が顔を押しあて、
押しあて、抱きしめ涙涕これ伏沈む』

 悲しみにくれるなか、二人はお鶴の屍を布団に寝かせ火を点けて、家ごとお鶴を燃やしてしまったのだ。     
      
 手術から三か月経った。テープを剥がすと、メスを入れた跡などみじんもない。これまでダンゴムシが埋まっていたとは思えないほど綺麗な皮膚であった。美々は満足だった。とても嬉しく思った。
 夜、帰宅した夫に喜び勇んで「見て見てー」と眉間を突き出した。「おっ」夫は眉間を注視したけれど、その後に続く言葉はない。美々はもっと喜んでくれるものだと思っていた。靴下ごっこも大げさなほど「くっさっ」とやったのに今日は反応が鈍い。面白くないので「今日は特別くさすぎてどないもならん」と美々は言ってやった。それを聞いた夫はにんまりと笑った。これは上機嫌な証拠である。
      
 
 美々は地図を畳んだ。
 スマートフォンに自分の顔を写して『お母さん、元気?』と母に送信する。しばらくして母から返事があった。
 『元気そうやな。コロナでどっこも行けんけど、元気にしとうよ!』
 『私の顔、ヘンちゃう?』 
 『もう一回、見てみるわ。ちょっと待って』
 数分後、母から返事があった。
 『若返ったか?』
 母の記憶に眉間のほくろは残っていないようだ。
 確かに存在したほくろが、今はもう無いけれど、母が美々だとわかるのだからそれで良いではないか。
 ただ、在りし日のほくろを思い出すと、望郷の念に駆られるのはどうにもならないことである。   
(了) 


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