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短編小説 「 いっちゃん」


 生活排水で澱む佐古川の底に暗い塊を見つけたとき、西日の照り返しで見まちがいかも知れないと思ったから、橋を渡って反対側からも覗ってみた。 反対側は家屋が西日を遮るから水面が陰になるけれど集中して目を凝らした。あそこにおる、やっぱりおったわ。確信を得たことで、神谷(かみや)里美(さとみ)の心臓は激しく鼓動して満たされた。

       *

 里美はビニル袋とスコップを持って家の庭に出た。昨夜、雨が降ったせいで土は緩み、サンダルの底に土がべっとり着いた。路地に面した庭の一角に数個ある小山をスコップでなでるように崩した。本来なら、小山から出て来る小さなモグラを素早くビニル袋へ入れ、散髪屋のおじいさんに見つかる前に他所へ移してあげないといけないのに、一匹も出てこなかった。 
 
 国道三一八号線から路地を山側へ進み、諏訪神社を左に見て真っすぐに進むと里美の家がある。小学校に上がる前、戦後の古い家が取り壊されて宅地となった一区画を父が買った。
 道路を挟んだ向かいは多田病院。病院の並びに散髪屋。病院には里美より三つ年上の息子がいるが、父親は他界し、母親は施設に入っていると近所の噂できいた。  
 里美は小学生の頃、学校まで徒歩で数分の距離を息子の人と一緒に登下校していた。ある日、家の庭にできた小山から小さなモグラが整列して出てきたのを発見して、二人で見ていると散髪屋のおじいさんがやってきて言った。
 「このモグラは悪いモグラやけんな、全部川へ放り込めぇー」 
 懐からビニル袋を取り出して病院の息子に渡した。
 「袋の口をきつぅに結べ。ほて、川へ放り込めぇー」
 急かされるように五匹のモグラをビニル袋に入れた息子は、顔を真赤にして震えながら袋を結び、ひと思いに佐古川へ放り込んだ。温かくて重量があり、もぞもぞ動くビニル袋の感触を振り払うように、彼は執拗に掌を擦り合わせていた。二人で落ちた辺りの水面を見つめていたけれど浮いて来ることはなく、緩い川の流れとは裏腹に、動かない暗い塊があることがわかった。
 翌日から里美は下校時に川底の暗い塊を確認するのが日課となった。息子の人は心の病に罹り不登校になってしまったから、里美はひとりで確認していた。何歳まで確認していたのか忘れたけれど、三十年経った今日でも、モグラと小学生の息子の人を覚えている。
        
 父親の残した書籍が一生かかっても読み切れないほどある家の中で、里美はひとりの生活に慣れてきた。
 旅行会社に勤めていた里美は十二年前、両親の結婚記念日に船旅をプレゼントした。神戸港から横浜港を往復するクルーズなのだが、帰路は悪天候のなか横浜港を出た船が伊豆諸島付近で貨物船を避けきれずに追突して転覆したのだ。乗客、乗組員のほとんどが亡くなり、両親の遺体は発見されないまま十二年が過ぎてしまった。船旅なんてプレゼントしなければよかったのだ。両親は水の中でどんなに苦しかっただろう。後を絶たない後悔をするたびに心臓の鼓動が激しくなる。  
 両親の様々な手続きが終わったのち、里美は鬱病に罹った。最初は掌に小さなプツプツだったのが次第に体中に広がった。時折、昏倒して青あざができたが痛くはなかった。不眠と幻覚と止まない涙。会社の産業医から自宅に近い病院を紹介された結果、休職に入ることになった。 
 季節が一巡した頃、産業医に「職場復帰は無理です」と告げられて二十年勤務した会社を退職したとき、里美は四十二歳になっていた。
 
 今日は三週間に一度の受診日である。パソコンのカメラの前で待機する時間は鏡を見ているようで落ち着かない。そのうち里美の画面が小さくなり、マスクをかけた医師の顔が大きく映し出された。
 「お待たせしました。こんにちは、神谷さん。どうですか」
 「こんにちは。変わりありません」
 「今日は台風の影響で蒸し暑いですね。外出しましたか」  
 「はい。清水(せいすい)寺(じ)のお墓を掃除をして、紫陽花を挿してきました。庭の土も均しました」
 「今日はいましたか」
 「いなかったです。けど、絶対にいるので見つけたら助けてあげます」
 「その気持ち、わかりますよ」おっほー。医師は目尻を下げて大きく頷いた。
 医師は毎回おなじ質問をする。里美は答え方を変えているはずなのに質問は変わらない。同じ質問が問題というわけではなく、無理に問題を作る必要もないわけで、要するに医師に対して何の不満もないのだ。
        
 ある夜、向かいの病院の息子の人が家にやってきた。 
 「すだちが生りまして。よかったらどうですか」
 息子の人と中年になってからの再会に、里美はどれくらい近所の人みたいに接したらいいのかわからない。 
 「多田さん、どこにすだちの木があるんですか。全然知らんかった」
 「家の裏手。手入れもしてないのに実が生るんよ。僕、うれしいて。おすそ分けしようと思うてな」おっほー。里美はゆっくり頷きながらも、聞いたことのある笑い方だと感じた。    
 ビニル袋に瑞々しい緑色のすだちがパンパンに入っているのを「どうぞ」と差し出されたとき、里美は長い間すだちを忘れていたことに気がついた。すだちは種を思い出し、母を思い出す。苦くて甘い記憶である。
 薬味のくせに種があるすだちを種も取らずにそのまま焼き魚に絞り、思いがけず身と一緒に噛んでしまった時の得も言われぬ歯ごたえに、この世の物とは思えない衝撃が体の末端まで震撼させる。みかんの種はかわいいほう。すだちのあれを体験すると生きた心地がしない。その体験以来、母は前以て種を取ってくれていた。
 「私はほんの二、三個でいいです。欲しい人がおったら上げてください」
 「ほんなこと言わんと、全部要らんかったら五つでも六つでも」おっほー。息子の人が二度目に笑った瞬間にマスク、画面、近くの病院、と繋がると無性に居心地悪くなり息子の人に帰って欲しくなり、急いですだちに手を伸ばした。すると息子の人が里美の手首を掴んで裏返して見せた。
 「あかんでないか。こんなに傷つけて」
 里美は痛い、痛い、と言って息子の人の手を払いのけた。普段なら映るのは胸から上なので油断していたのだ。
 里美はすだちを五つ貰い、お礼を言って半ば強引に玄関ドアを閉めると、息子の人の足音が聞こえなくなるのを目を閉じて待った。 
 里美は今日こそ、今日こそは両親の元へ行こうと決めるのに、遣り損なうのだ。遣り切れない証が手首の傷痕である。
 
 五つのすだちを見ていると、それらは里美の心に放り込まれた手榴弾のように見えて、爆発するかも知れんと思うと、途端にすだちをどこに置けばよいのかわからなくなった。置き場所を探し回った末、父の書斎から日本文学全集を取り出して本の上にすだちを置くことにした。 
 そのあとキッチンへゆき、薬の袋を確認してみると「いつきクリニック」とある。今頃気づいた自分が滑稽でならなかった。
 翌朝、昨夜のすだちは不発に終わったまま本の上に乗っている。里美は仏壇へゆき鈴を鳴らして手を合わせると、ビニル袋とスコップを持って庭に出て行った。 
       
 その日の夕刻、息子の人が段ボールにいっぱいのすだちを持ってやってきた。息子の人の家のすだちである。
 「お願いがあるんやけど」
 段ボールいっぱいの緑色が黄色に変色するまでに消費してもらいたいのだそう。里美は訳も聞かずに薬味としてのすだちを大量に活躍させるにはどうしたら良いかと考えた。
 かけうどんの上に輪切りのスダチを渦巻きのように乗せてあるのを見たことがある。邪道だと思っていたがすだちの消費量が多そうなのでやってみることにした。輪切りにしてうどんの上にぶわーっと広げると、実物は美しかった。感動のあまり息子の人に「見に来てー」と電話すると一目散にやってきた。そして食べた。爽やかでのど越しの良いうどんを気に入ったらしい。 
 里美はにゅう麺にもぶわーっとやった。調子に乗ってそうめんにもやった。
 ある日、精肉店でアグー豚が手に入ったのでしゃぶしゃぶをしようと思いついた。だし醤油にすだちを沢山絞り、豚を潜らせて食べればさぞかし美味しいだろう。息子の人を呼ぶと犬のように喜んでやってきた。
 すだちを消費してゆくにつれて、里美は頭の中が晴れてゆくのを感じた。すだちの香りが蔓延る暗い闇を追いやってくれるように思われるのだ。
 
 すだちをギュっと絞る勢いに任せて、里美は息子の人に名前を訊いた。
 「樹木の樹って書いて、いつき。『いっちゃん』でええよ」
 「いつきクリニック」
 「ピンポーン」おっほー。
 いつも画面越しに会っているのだから、内緒のことなどひとつもない。里美は安堵した途端にパッと閃いた。 
 「レモンパイがあるんやったら、すだちパイってのはどう?」

 すだちの輪切りをはちみつに一晩付け込み、パイ生地に包んで焼くと純日本的な香りが漂った。この香りを一刻も早くいっちゃんに届けたくて、向かいの家へパイを持って走った。「いっちゃん上がるよー」と声を掛け、勝手にお湯を沸かして紅茶を淹れた。紅茶に残りのすだちを二枚浮かせるとすだちティーのできあがりである。すだちパイとティーの組み合わせは実に完璧であり、薬味としてのすだちを超越し、遂にすだちが主役になったのである。診察が終わったいっちゃんがくんくんやってきた。キッチンの暖簾を潜るいっちゃんを見たとき、いっちゃんがおる、と思った。里美の心臓は一気に坂道を駆け上るような鼓動の速さに変わった。
 「ほな、よばれよか。旨そう」
 「うん、旨いじょ」
 いっちゃんは旨い、旨いと言いながら、あっという間に平らげた。
「昔の話するぞ、ええか。小学生のときモグラを川に棄てたわな。散髪屋(さんぱっちゃ)のじぃさんの言うこと真に受けて、可哀そうなことしたよな。  
 薄々わかってると思うけど、言うとく。庭にモグラはおらんぞ。川にもおらん。幻覚じゃ」
「おらん?」
「そう」
「なんで?」
「おらんもんはおらん。幻覚じゃ」
「そう」
「散髪屋(さんぱっちゃ)もこの世におらんぞ」
「おらんの」 

 爆発しなかった五つのすだちは本の上ですっかり黄色に変わり、果皮も皺だらけである。里美は不発すだちを庭に持ってゆき穴を掘って埋めた。埋めたことだけはいっちゃんに内緒にしておこう。  (了)

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