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冬はさみしいがつまってる

今日はお休みだったのですが、引きこもりを決め込みました。
お外はとても晴れていて気持ちよかったのですが、そういえば一日中家にいました。太陽を浴びないとセロトニンが分泌されず精神的に良くないと聞きました。せっかくのお天気だったのに、もったいないことをしたな、と思いました。

今日は朝目覚めてからすぐ映画を一本、布団のなかで観ました。そういえば配信の映画をしっかり丸々一本観たのは久しぶりのことかもしれません。
ちょっとずしんとくる内容だったので、布団に潜り込んだらそのまま闇のなかに潜り込んでしまう気がしたので、起きてすぐに加湿器をお掃除しました。ぬるま湯にクエン酸を入れて、なかにあるフィルターを浸し、容れ物をスポンジでこする。ついでにベランダと玄関の枯れ葉などが気になったのでほうきで掃き掃除をする。この間掃除機掛けたばかりのはずなのに、部屋の髪の毛とかも気になったので掃除機をかける。

掃除する前たまに、「掃除した瞬間からどうせ汚れるし、それってつまり私が生きているからで、ってことは生きないほうがいいのでは」とかふと思ってしまって絶望しかけてしまうんですよね。
でも掃除したあと、「ぎんもち〜い!」って清々しい気持ちになるんですよね。それで、「ああ、生きるってこういうことだ。繰り返しなんだ。でもその繰り返しが私を生かしているんだ。私を人間たらしめてくれているんだ。」なんて気づくんですよね。掃除のたびにこんなこと思ってたら精神がもたないと思いませんか。ええ、そうです、もちません!!
無心で掃除をせよ、松森よ。

***

アルバイト先の人が一人辞めてしまったらしく、そのお知らせがグループLINEで流れてきた。LINEで一言挨拶したあとすぐにグループLINEを退会してしまったので何も反応できず、そのままさよならとなってしまった。
いや、個人的にLINEすればいいのだけれど、そこまで立ち入ってお話ししたことがないものでLINEしたところで逆に気を使わせてしまうと思うのでLINEはできない。
なんだか、どんな理由であれ職場の人が辞めるのってなんか寂しいんですよね。ああ、こんなにも簡単に会えなくなっちゃうんだなって。
職場の人ってお休みの日に遊んだりしたことない人がほとんどだけど、職場に行けば会えるっていう安心感があるんだよなあ。それがなくなってしまうのって寂しいんですよね。

専門学校を卒業して最初に働いた飲食のお店が、家族経営でみんな家族みたいな(部活仲間っぽい感じ)の距離感だったからか、その後に働く職場はぜんぶ「なんか寂しい」を感じながら働くことになってしまっている気がする。
うん、たぶんそのせい。いまだに、あの職場の人たちが恋しいと思うときがある。経営してるオーナーさんが女性で、たぶんお母さん的なあったかさも感じていたんだろうなとも思う。
もちろん距離が近いゆえの問題もあったりもしたけど、(辞めるときも変な辞め方をしてしまったんだよね…)結構好きだったな。職場にそんな家族的なあったかさは不要なのかもしれないけれどね。
そういえば、そのお店が今月いっぱいの営業で長期休業に入るらしく、それもまた寂しい気持ちにさせたことにのひとつだなあ。

(すごく今感傷的になってるかもしれないんですけど)
人と人というものに永遠というものはなくて、別れがあって出会いがあるのはわかっているんですけど、別れって寂しい。これからいろんな出会いがあるのか〜!ってわくわくしたことってそういえばあんまりなくて、寂しい寂しいってずっと言ってる気がする。

前に働いていた職場のパートの女性からたまに連絡がくる(1年に1、2回とか)のだけど、それが結構嬉しかったりもする。今県外だから会えないけど、また会いたいなあ。元気かな。たまには自分から連絡してみようかな。
自己肯定感の低さゆえ、「自分が連絡してきたら気持ちわるがられる、怪しまれる」と思ってしまうところを突破したい。そしてただ自分がLINEを送信したかっただけ(元気かなって送りたかっただけ)、というスタンスでいたい。


今回辞めてしまった人にこの思いはもう伝えられないけれど、「寂しいですよ」ってことはここに書いておこう。

ん?こんな感傷的になってるのってセロトニン分泌されてないせいじゃないか?
明日はやっぱり太陽浴びるようにしよう。


追記:
これ書いてるとき、なぜか切ない曲ばかり聴いていたから感傷的になっていたことが判明しました。笑
ふと宇多田ヒカルの「Keep Tryin’」を聴いたら元気になってきました。

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