大豆田とわ子と三人の元夫は、センチメンタルなおかんの気持ちを少し変えてくれた
この週末、息子が3歳になった。幼い子どもたちがいま最高に可愛く、一緒に過ごせる瞬間が尊すぎて、時よ止まれ!と、思うことしばしばだ。
でも、ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」でオダギリジョー扮する小鳥遊さんが、親友を亡くした主人公に語った言葉「時間は過ぎていくものじゃなく、場所というか別のところにある。人間は現在だけを生きているんじゃない。あなたが笑った彼女を見たことあるなら、彼女は今も笑っている」が、センチメンタルになりがちな、おかんの気持ちをぐっと支えてくれた。
「大豆田とわ子と三人の元夫」は、人生の見方が少しだけ変わって、矛盾だらけの自分や、取り戻せない後悔を優しくそっと包み込んでくれるような、本当にいいドラマだった。
3歳の息子と手をつないでる39歳の私はどこか別の場所に永遠にいて、いつだって手をつなげるのだ。亡くなった人とも、もう会えないあの人とも、また笑い合えるのだ。きっと。
ドラマを観ている時間ではなく、日常のなかで、ふとドラマのシーンや言葉が思い出されて、涙がこみあげてくる。それは悲しいではなく、温かさに満たされてる。現実の人生の見方を少しだけ、いい方向に変えてくれる。
こんなドラマはなかなか出会えない。私にとっては、そうだなあ、数年前のNHK朝ドラ「スカーレット」以来かな。
特に最終回は最高でしたね。父親が雨戸をはめてくれたシーンは、今思い返しても涙がにじむ。
あのときのとわ子のように、父親のことをはじめて理解できたような、ある意味、許せた瞬間が、私にもあったことを思い出した。
そして、最終回でとわ子がつぶやいた「母は幸せだったんですね」を聞き、そうか、初回から、ここまでいきつくための物語だったのかもしれない、とはっとした。
はたして、母は幸せだったのだろうか。自分の人生を生きられたのか。娘の行き場のない不安。
その答えを、誰か大切な人に、あなたの母親の選択は正解だった、母親は幸せだったのよ、と言ってもらえたらどんなに救われるだろうか。
大豆田とわ子の物語は、いつしか私の物語になっていった。そんな瞬間がいくつもあるドラマだったように思う。
いつか、子供たちが私を思いかえすような日がきたら「あの人、しあわせだったよね」「自分らしく生きてたよね」とクスクス笑いながら話せるように、今日を生きたい。
そして、3歳の息子と5歳の娘との時間は過ぎ去っていくものじゃなく、永遠にどこかに存在し続けるのだ。
波打ち際ではしゃぐ子供たちを眺めながら、ドラマのことをぼんやり思い出しながら、そんなことを思った週末だった。