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それを愛と呼ぶことについて

エレファントカシマシの名曲、「桜の花、舞い上がる道を」(2008)のカップリング曲である「それを愛と呼ぶとしよう」。
相当にリアルさが感じられるいわゆる「ラブソング」で、女性ファンがざわざわしたと聞くこの曲を遅ればせながら。

かなり覚悟して聴いたのだけれど、結論から言うと、思ったほど、というよりほとんど心はざわつかなかった。
どうしてだろうと思いながら繰り返し聴くうちに、この曲と表題曲に共通してうたわれるフレーズに気付いたのだ。それは、

〈上り下り〉

その瞬間、もしかしてもしかしたらこの2曲はともに、〈上り下り〉の人生を
「ドーンと生きていくこと」
そして
「そのかたわらに大切な人がいること」
という、いつものとおりのメッセージをうたっているのではないか、と思ってしまったのだ。
それを彩っているのが、ひとつは「桜の花」でありもうひとつが「恋愛」なのではないか、と。

加えて、

〈桜の花、舞い上がる道をおまえと歩いて行く〉(桜)
〈どんな悲しみも越えてお前と歩き続けるのが願い〉(それ愛)

〈例えりゃあ人生は花さ〉(桜)
〈道に咲く花のような当たり前の日々が〉(それ愛)

などの符合も。

これに気付いたら、「なーんだ」ってなった。
この曲も、ほかにも多数ある「ラブソングの皮を被った、でもそれどころじゃなく壮大な愛のうた」の系譜に連なっているんじゃないか。恋愛への寄り方がほかより大きいだけで。

もちろん、そのメッセージを彩る「恋愛」が作家の経験に基づくものであろうことは承知している。でもそれが、特定の、ひとつの恋愛には思われない。40年あまり(リリース時)生きてきた中での、さまざまな恋愛のかけらが散りばめられているのではないかと思えるのだ。

などなど考えながら、当時のファンの捉えがどうだったかを探るべくネットを彷徨ってみたところ、
「恋愛の歌でもあるんだけど、仲間の歌でもあるし、自分の歌でもある」
との発言があったと目にした。
これをもって、やっぱりね、と私が感じたある種の普遍性、恋愛のうたという意味での「ラブソング」の枠に収まらないことに得心がいったのだ。

たとえば今この曲がうたわれたら、何があったのかと界隈がざわつくことは必至であろう。
しかし私には、メンバー3人への
「これからもよろしくな」
にしか聴こえない自信がある。
妄想であることは重々承知しているけれど。

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