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「百代の過客」の話

 俳諧師・松尾芭蕉は謎めいた人物である。
 何が「謎」なのか。
 芭蕉は『おくのほそ道』の道中において、一日に数十キロメートルの道程(みちのり)を踏破している。この現代人の脚力では考えられない“高速移動”を披露していることから、古くから「松尾芭蕉=忍者」説が囁かれている。さらには、徳川幕府からの「奥羽諸藩の内情を探るべし」の密命を帯びた「松尾芭蕉=隠密」説も流布している。
 『おくのほそ道』の旅が始まったのは元禄2年(1689)3月27日(陽暦5月16日)。このとき芭蕉46歳。なんと今の老生より若いじゃあないか。
 けれども、芭蕉の脚力は驚くに値しない。江戸時代の老若男女は総じてよく歩いたのだ。老人でも一日数十キロメートルは当たり前、否、むしろお年寄りの方が若者より歩いていたという。そんな江戸人の健脚ぶりに驚嘆するのは、現代人が自動車、電車、飛行機、船舶……その他諸々の機械文明の“毒”に冒されているからだろう。このまま毒が回り続けたら、人類は己の脚のみでの移動が困難となり、 “ナックル・ウォーク”の猿時代に逆戻りするのではないかと、老生は危機感を抱くのであった。
 閑話休題(それはさておき)、老生が「松尾芭蕉は謎めいた人物」と思うのは、芭蕉の脚力のことではない。それは、芭蕉が見た“モノ”のことである。
 それは何か。
 その“モノ”は、『おくのほそ道』の月山(がっさん)登頂の記述の中にある。月山(標高1980メートル)とは出羽三山のひとつで、山頂にある月山神社には月読命(つきよみのみこと)が祀られている。その登山について、芭蕉は《雲霧(うんむ)山気の中に氷雪を踏みて登(のぼ)ること八里》と書いている。つまり、32キロメートルにも亘る氷雪(=万年雪)を歩いたというのだ。ここで不思議に思う。なぜなら、芭蕉が月山に登ったのは6月8日(陽暦7月24日)のこと。現在(いま)なら夏休みに入ったばかりの時期だ。月山は、『山形百山』(無明舎出版)に《厳冬期の頂上付近の積雪は一〇メートルに達するといわれている》とあるような豪雪地帯。また夏スキーが盛んな場所で、『郷土資料事典⑥ 山形県』(人文社)によれば《シーズンは四月下旬から八月中旬》だそうな。近代化への萌芽がみられた江戸時代とはいえ、現代のような温室効果ガス排出による地球温暖化は進行してはいなかったはず。現代よりもずっと気温が低かったら、夏休みまで大量の雪が残っていても不自然でないかも知れないが、それでも“氷雪を踏みて登ること八里”とは幾らなんでも法外な残雪じゃなかろうか。月山の残雪については、是非とも地元の方々の御意見を承りたいものだ。
 さらに月山登頂で不思議なことは、随行した曾良(そら)の日記では登頂日が「6月6日(陽暦7月22日)」となっていることだ。芭蕉の6月8日と曾良の6月6日。このふたりの日付のズレは何を意味するのか。
 ふたりの日付のズレは他にも見られる。
 例えば、「笈(おひ)も太刀(たち)も五月(さつき)に飾(かざ)れ紙幟(のぼり)」と詠んだ飯塚滞在の日付を、芭蕉は5月1日(陽暦6月17日)としているが、曾良は彼地の滞在を5月2日と記している。
 また日本海側の越後路においても、曾良の日記には「酒田を6月25日(陽暦8月10日)に発ち、市振に7月12日(陽暦8月26日)に着いた」と移動に16日間を要したとあるが、芭蕉の『おくのほそ道』では《この間(かん)九日(ここのか)》としている。この日数(ひかず)の違いは何を意味しているのか。芭蕉と曾良は別行動していたのか。そもそも、ふたりが常に行動を共にしていたとは、後世の我々の勝手な思い込みかも知れない。
 さて、月山神社に祀られている月読命は、伊耶那岐命の右の眼球(めだま)から誕生した男神だとされる。「月山」という名もこの神の名に由来しているそうだ。古来より人類は月の満ち欠けによって月日の進行を算出してきた。なので、満ち欠けを繰り返す月は誕生・死・復活の3つの相を表わし、その三相は過去・現在・未来に通ずるとされた。さらに、月は潮の干満、降雨、四季の他に人の運命も支配しているともいわれている。人の運命を支配するとは、まるでギリシア神話に登場する三女神・モイライのようではないか。そう言えば、運命の三女神は夜の女神・ニュクスの娘ともいわれている。運命は夜から産まれた。まさに「歴史は夜作られる」だ。
 『世界シンボル辞典』(三省堂)によれば、《猫や狐といった夜の動物はすべて月に属するが、ときどき姿を消す動物ーたとえば冬眠のために姿を消し春になると生まれたばかりの仔熊とともに姿を見せる熊のような動物ーも、やはり月に属する》とある。ふと思う。「ときどき姿を消す動物」には“神隠し”のような超常現象も含まれるのではないか、もしかしたら芭蕉は月山で神隠しに遭ったのではないか、と。
 神隠しとは、『神話伝説辞典』(東京堂出版)に《主として子供がとつぜんいなくなる怪異現象をいう。隠すのは天狗・狐・隠し神などのしわざと考えられ、隠される者は知能がおくれているとか、逆に神経質な子供が多い》とあり、《大人が神隠しに逢った場合には、途中で一度だけ姿をあらわし、ふたたび帰って来ない例が多い》とある。また『民間信仰辞典』(東京堂出版)は、神隠しについて《この現象の意味はまだ解明されてはいないが、人と神霊とが交渉する一つの方法であったと考えられている》としている。「科学万能の時代」を自負する21世紀においても、“神隠し”の原因は究明されていない現状だ。
 芭蕉は月山登頂の様子を《さらに日月(にちぐわち)行道(ぎやうだう)の雲関に入(い)るかと怪(あや)しまれ、息絶え身凍(こゞ)えて、頂上に至れば、日没して月顕(あらわ)る》と書いている。老生、この描写から第一次世界大戦中の1915年8月28日に起こった“ノーフォーク連隊集団失踪事件”を連想してしまう。
 ノーフォーク連隊集団失踪事件とは、イギリス陸軍300名がサル・ベイ丘の第60号丘陵の攻略に向かう途中、丘の上から降りてきた“灰色の雲”に包まれ跡形もなく消え去ってしまった事件のこと。イギリス兵300名は何処に消えたのか、彼らの行方は今だ明らかにされていない。この事件も“神隠し”と呼べよう。
 芭蕉が月山の山中で通ったとされる“日月行道の雲関”について、『新編日本古典文学全集71 松尾芭蕉集②』(小学館)は《日や月の通い路にある雲間の関所》と訳しているが、老生には「時間の通り道(=タイムトンネル)への入口」を指しているように思えるのだ。つまり芭蕉はタイムトンネルを通過した(=時間移動をした)、と。もしかしたら、芭蕉は時間移動をして雪深い季節の“8日”の月山を訪れたのではないか。曾良を“6月6日”の世界に残したままで。そして或る月の“8日”の雪道を登った後、山頂で6月6日の世界に戻り曾良と合流したのではないか。
 芭蕉と時間移動ーそう言えば、日光を訪れた際、芭蕉はその日付を「3月30日」としているが、その年(元禄2年)の3月は“小の月”に当たり29日までしかない。つまり元禄2年3月30日という日付は存在しないのだ。このことからも、芭蕉が“3月30日”の有る年へ時間移動していたと考えられるのだ。
 また、芭蕉の記す「日月行道の雲関」とノーフォーク連隊が遭遇した“灰色の雲”とは何か通ずるものがあると思える。もしかしたら、ノーフォーク連隊も過去・未来のいずれかに時間移動(=神隠し)してしまったのかも知れない。残念ながら彼らは“現在”に戻ることが出来なかった。だからこそ、我々は連隊の消息を未だ掴めずにいるのだ。
 結論を申さば、松尾芭蕉は時間移動を自由におこなえる“異能者(タイムトラベラー)”であった。つまり「時をかける俳諧師」。それを念頭に置いて『おくのほそ道』を読んでみると、冒頭にある《月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり》という言葉も、何かタイムトラベルを暗示しているように思えてならないのだ。(了)

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