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誤った認識はどこからやってきたのか?

創造の対義語は?

「創造の対義語は?」と問われたら…
最も多い反応は、「破壊」
さて、どうしてそうなったのだろうか?

抽象の意味は?

「抽象の意味は?」と問われたら…
最も多い反応は、「曖昧」
さて、どうしてそうなったのだろうか?

人の認識は、クセがあるし、誤認する。

強い印象のあるものと結びついた時、または、誤用や誤認が繰り返されると、人間は誤ったものでもそれが正しいと認識するようだ。

授業づくりに思う

倫理の授業を担当すると、言葉の定義というものに意識が向く。
そして、「言葉」というものが、非常に力強く「人間の認識」を引っ張ることに気づく。
また、「言葉」の定義を「今の自分」では認識できない時、「今の自分」が認識できる範囲の中で、何とか認識できるように捉えてしまうということが生じることにも気づく。
そこに、誤用や誤認が生まれると感じた。

だから、誰が、どのような場面で、何のために、対象に「言葉」を通じて意味を与えたのか?ということを大切にしなければならない。

「説明」だけでは難しい…

だから、説明だけでは難しい。
「これは、こうだ。」といくら教師が説明したところで、生徒たちの「納得」にはつながりにくい。
それは、生徒たちは「教師の言葉」を押しつけられただけであり、それを「定義」としなければならないという強制に直面したような形になるから。
だから、本人の中での「納得」というものが重要となる。
「納得」は、強制ではない。
「納得」を生み出すプロセスに着目しなければならない。

授業は本当に難しい…

改めて、授業というものの難しさに直面している。

毎日noteを書きつづけて90日が過ぎた。
自分の中でのモヤモヤのようなものが、一気に噴出している。
これが、自分を理解することにつながった。
しかし、これまでは疑問に思ってもいなかったことに対しても「疑問」や「問い」を持つようになった。

苦しいけれど、より良い授業を行うための第一歩と受け止めたい。
今日も新しい気づきをありがとうございました。

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