![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/140164808/rectangle_large_type_2_6a376c1aa5dfff4422e939efbe4c10f0.jpeg?width=800)
[2023/01/08] 詩から生まれて詩に還る物語(太田りべか)
~『よりどりインドネシア』第133号(2023年1月8日発行)所収~
ジョコ・ピヌルボ(Joko Pinurbo)、通称ジョッピン(Jokpin)は、現代のインドネシアの代表的詩人のひとりだ。1999年の処女詩集『ズボン』(Celana)から2022年5月の60歳の誕生日に合わせて出版された最新詩集『エピグラム60』(Epigram 60)まで、個人詩集は20冊に及ぶ。巧みな言葉遊びと軽妙なユーモアと皮肉の入り混じる作風は、若い世代の読者の間でも人気が高い。
そんなジョッピンが発表したはじめての小説が『スリムナンティ』(Srimenanti)である。この小説を読んだとき、なんとなくリチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』を思い出した。どこがどう似ているというのでもないのだけれど、どちらもどこか共通した「臭い」を持つ、ちょっと不思議な小説なのだ。
たとえば、語り手のひとりである詩人「わたし」が、ずっと憧れていた詩人サパルディを思い切って誕生日に訪れる場面。「わたし」は、緑色の瓶に雨と夕暮れを詰めてサパルディに贈る。サパルディは嬉しそうに瓶の中の雨の音に耳を傾け、やがて立ち上がる。
……瓶の中の雨と夕暮れを振り混ぜる。ふいに瓶の栓がはずれて茜色の水が溢れ出し、空中に高く噴き上がる。わたしがまだ呆然と見上げているうちに、茜色の噴水が突然消えた。サパルディがわたしの背を叩く。「ほら!」と声を上げて池を指す。
池の上に茜色の花が一輪開いている。月の光が池を満たし、茜色の花はいっそう燃え立つように見える。
また、もうひとりの語り手である画家スリムナンティが、少女だったころのある朝の場面。小雨の中を歩いていると、空から父親のものとおぼしき声がして、次の瞬間に目の前に青空が一枚舞い落ちてくる。スリムナンティはそれを拾って折り畳み、持ち帰って部屋の天井に広げる。
そんな描写を読んでいると、なぜか『アメリカの鱒釣り』のこんな言葉を思い出す。
アメリカの鱒釣りならどんなにすてきなペン先になることだろう。きっと、紙の上には、川岸の冷たい緑色の樹木、野生の花々、そして黒ずんだひれがみずみずしい筆跡を残すことだろうな……。
『スリムナンティ』も『アメリカの鱒釣り』も小説というより詩に近いので、頭の中のどこかで勝手に結びついてしまうのかもしれない。翻訳家・文芸評論家の鴻巣友季子氏によると、近年の英米の出版界では「ヴァースノベル(詩小説)と呼ばれる表現スタイルがひとつの分野を形づくっている」らしい。ヴァースノベルとは、「詩、または散文詩のような形で書かれた小説のことだ」という。1967年に出版された『アメリカの鱒釣り』は、この「ヴァースノベル」の走りと言ってよさそうだし、ジョッピンの『スリムナンティ』もやはりその範疇に入る作品だろう。実際、この小説の下敷きになっているのは、たくさんの詩たちなのだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1715332724524-5wDVQuoTfQ.jpg)
ここから先は
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?