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[2024/06/22] ジャカルタ寸景(11):小さな市場の小さな「分銅」コーヒー豆店(横山裕一)

~『よりどりインドネシア』第168号(2024年6月22日発行)所収~


ブロックMの片隅で

日本食レストランなどが集まり、在留邦人からもブロックMとして知られる、南ジャカルタのムラワイ地区。この一角に気をつけていないと通り過ぎてしまうほど小さな伝統市場がある。宝飾店と日本居酒屋の間にポッカリと空いたような入口には薬屋と雑貨屋の店が両脇にあり、その奥が鰻の寝床のように広がっていて、野菜や肉、魚など日常の食材が販売されている。

ブロックMの小さな伝統市場にある「分銅印のスマトラコーヒー」

その入口の雑貨屋の奥隣に、1メートル半四方ほどしかない間口にこぢんまりとしたコーヒー豆の販売店がある。おばちゃんが一人座っていて、それだけで店内スペースは一杯になるほどの狭さだ。天井から分銅の絵が書かれた店の看板が吊り下がっている。その名も「分銅印のスマトラコーヒー」(Kopi Sumatra Cap Batu Timbangan)。

スマトラコーヒーと銘打ってはいるが、店先にはスマトラ島産のアチェガヨ以外にもスラウェシ島のトラジャ、東ヌサトゥンガラ州のフローレスなどインドネシア各地のコーヒー豆が入ったガラス瓶が並ぶ。おばちゃんの背後の棚には既製品の各種ジャワティー、緑茶、さらには屋台などで使われるコップ一杯分の分量が入った短冊状のコーヒーなどが積み上げられている。飲み物ならばなんでもござれといった感じだ。

夫婦で店を切り盛りし、おばちゃんが朝7時から昼まで、おじちゃんが午後から夕方6時半頃まで店番をしている。息子が豆の仕入れをしているという。

コーヒー豆を注文すると、看板に掲げられた店名通り、昔ながらのずっしりとした鉄製の秤でコーヒー豆の分量を計る。秤の片側に分胴を置き、もう片方にある洗面器のような鉄製の容器にコーヒー豆を注ぎ込んでいく。そして、大きな匙で容器内のコーヒー豆を少しずつ慎重に掬い取りながら、シーソーのように動く秤の両側にある分銅とコーヒーの入った容器が等重量を示す位置へ来るように調整していく。分銅秤の懐かしさもあるが、おばちゃんの丁寧ながらも手慣れた作業を毎度見るたびに心地よさを感じる。

コーヒー豆を計量する、古い分銅秤

計った豆はこれまた古そうな鉄製の大きなグラインダーにかけられる。ドリップするのか、そのままお湯を注ぐのか、コーヒーの淹れ方を客に確認すると、おばちゃんはレバーを使って豆の挽き具合を調整する。袋詰めも丁寧で感心する。まず少量の挽いたコーヒーをビニール袋に入れてから、それを屋号と分銅の絵が印刷された小ぶりの紙袋に入れる。ビニール袋を紙袋に入れやすくするための知恵のようだ。その後、袋口に漏斗を差し込んでコーヒーの粉を流し込んでいく。

丁寧な袋詰めをするコーヒー豆店の夫婦

職人のような丁寧な作業は夫婦揃って同じだ。土産用に多数の袋詰めを頼む時は、逆に申し訳なく思うほどで、出来上がったコーヒーのパックを見ると手料理をもてなされたような気分にさえなる。

分銅と歩んだ半世紀

おばちゃんの名前はファン・メイチュ(房 梅珠)さん(71歳)、華人系インドネシア人の2世。両親の出身地を聞くと、手帳に「廣東 梅県」と書いてくれた。現在の中国・広東省梅州市梅県区にあたる。インドネシア生まれのおばちゃんは、小学校は中国人学校に通った。そして高校まで中国語の個人レッスンを受けたことで、読み書きを含めて中国語を話せるという。

コーヒー豆店のおばちゃん、ファン・メイチュさん

「私にはもう一つ名前があるのよ」とおばちゃんが話す。デウィ・プルマタサリ、インドネシア名だ。第2代大統領、スハルト政権時に華人系インドネシア人に対する弾圧として中国文化が禁じられたのに伴い、華人系住民の中国名も実質強制的にインドネシア名に変更を余儀なくされたためである。当時おばちゃんが戸惑っていると、改名の書類を作成した担当者が勝手にデウィ・プルマタサリと名付けたという。「だからこの名前は好きじゃないのよ」とおばちゃんは少し寂しそうに話す。華人弾圧の抑圧された時代を思い出しているかのようだった。

おばちゃんはその後、同じく華人2世のおじちゃん、李思菜さんと結婚し、舅や夫の兄弟とともに現在のコーヒー豆店を1973年に開業した。分銅の秤はその時から使用していて、そこから店名もつけられた。場所は現在の市場から通りを挟んだ隣にあった、重層建物の巨大な伝統市場内だった。この市場は後に「ブロックMムラワイ市場」と呼ばれた。しかし2005年、ブロックMムラワイ市場は火災により全焼してしまう。焼け出されたおばちゃんたちは仕方なく、付近の路上脇でコーヒー豆を売り続けたという。路上販売当時を思い出しながら、おばちゃんはこう話す。

「とても疲れたよ、おしんみたいだったよ」

インドネシアでも放送され人気だった日本のテレビドラマで、奉公で苦労する女性主人公を例えに出しながらおばちゃんは笑う。おばちゃんの微笑みは大変だった時期を努力で乗り越えた自負で裏打ちされたものでもあるようだった。

全焼した伝統市場は3年後にショッピングモールとして再建される。現在のブロックMスクエアである。オープンにあたって、おばちゃんたちにも入居の声がかかったが、近代的なショッピングモールの家賃は高すぎたため断念せざるを得なかった。このため、同様に家賃を払えずに行き場を失った仲間たちと新たに立ち上げたのが、現在の小さな市場である。ブロックMスクエアの立派なビルの脇にできた市場の名前は「フォッピ自立市場」(Pasar Mandiri Foppi)。困難を経て自立した人々そのものを表している。「フォッピ」は市場を立ち上げた仲間たちのグループ名だという。

市場仲間と立ち上げた「フォッピ自立市場」

「この市場での店はとても狭いけど、商売が続けられるからありがたいよ」

おばちゃんは微笑みを絶やさずに話す。常連客らしい男性が訪れ、コーヒー豆を注文する。彼曰く「店が隣の市場にあった頃から30年、ここでコーヒーを買い続けているよ」。紆余曲折、苦労はあったが、「分銅印のスマトラコーヒー」店は今年ですでに創業51年を迎えている。

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