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銃乱射事件に遭遇したある一家の体験談

※この記事は有料マガジンですが、この記事については無料です。

僕が住むアメリカでは、ほぼ毎日のペースで銃乱射事件が起きています。

こちらに掲載された情報によると、2019年だけでも8月31日までにすでに297件もの銃乱射事件が起きており、1219名が負傷し、335名が死亡しています。1日あたり1.2人が命を失っている計算です。

ここまで銃乱射が頻発すると、死者が出なかった事件は報道すらされませんし、死者が出ても人数が少ないとローカルニュースで一瞬流れてお終いです。しかし、それぞれの事件は人々の心に大きな傷を残します。尊い命がたくさん失われ、数多くの人が涙に暮れます。

それでも銃規制が進まない国、それがアメリカです。そんな最中、僕の経営する保育園のお客さんご一家が銃乱射事件に遭遇してしまいました。幸いご一家は無事でしたが、今回初めて銃乱射事件の現場の生々しい様子を直接お聞きする機会があったので、これを広くシェアすることにしました。もちろんご本人の許可は得てあります。なるべく多くの人に銃乱射の現実を知ってほしいという希望もあり、記事化することにしました。

僕の個人的な意見等は一切挟まずに、当日何が起きたか、この体験を僕らに語ってくれたLさんの心にはどんな想いが駆け巡ったのか、なるべく正確に伝えられればと思います。

事件のあらまし

シリコンバレーから南に50キロほど行ったところに、ギルロイ(Gilroy)という人口6万人ほどの小さな町があります。大きなアウトレットモールがある以外はこれといった見所がない、平々凡々とした町です。かつて西部開拓時代には金が出て賑わったこともあるようですが、今は農業が最大の産業で、ニンニクの産地として知られています。

そしてこの地では40年前からギルロイ・ガーリック・フェステバルというお祭りが毎年7月末に開催されています。このお祭りは結構な規模で、なんと全米から観光客がやってくるらしいのです。ニンニク味のアイスクリームなどが食べられます。

このお祭り、一言でいうと最高にアメリカン、そしてメキシカンなお祭りです。アメリカの田舎に行くとどこでもカウンティ・フェアとかカウンティ・フェステバルなどと呼ばれる田舎臭いお祭りが年に1回催されますが、これが地元の盆踊り的な役割を果たしています。僕もオハイオ州のデラウェアという田舎町に住んでいたときには、デラウェア・カウンティ・フェスティバルに毎年行っていました。いい感じにダサくて、いい感じにみんなが浮かれてて、別に大した出し物があるわけではないのですけど、ちょっと浮かれた気分になれるいい感じなお祭りなのです。

このギルロイ・ガーリックフェスティバルはそんなカウンティ・フェステバルの1つで、特によく知られたものです。また、ギルロイにはメキシコ系のアメリカ人も多いため、メキシコ色の強いのもその特徴の1つです。そして今年はこのお祭りの40周年記念ということで、例年よりも大きな規模で開催されたのです。

当日の警備体制

昨今の銃乱射事件を受けて、多くの人が集まるイベントはどこも警戒が厳重です。入場の際には必ずバッグの中身をチェックされますし、大きな荷物を持ち込み禁止しているイベントも少なくありません。

このガーリック・フェステバルも同様に、厳しい警護体制が敷かれていました。手荷物のチェックはもちろんですし、会場はフェンスが張り巡らされた中に限定され、そこぞかしこに警察官が配置されていました。

犯人はそんな会場にどのように武器を持ち込んだのかというと、ワイヤーカッターで南端のフェンスを切ってそこから忍び込んだようです。まだ19歳の若者で、銃はその前に1ヶ月ほど滞在していたネバダ州で合法的に購入して持ち帰ったとのことでした。使われた銃器は AK-47タイプのアサルト・ライフルです。

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犠牲者

この事件により、3名が死亡し、17人が負傷しました。殺されたのはステファン・ロメオ君6歳、ケイラ・サラザーさん13歳、そしてトレバー・ディオン・アービィさん25歳の3名です。

毎年開催される地元の盆踊りに出かけたら、銃乱射に遭遇して6歳の子供や中学生の娘や前途ある若者が唐突に命を奪われてしまう。そんな様子を想像すると、アメリカの銃乱射というのがどのようなものなのかイメージできるかもしれません。

それではいよいよ、お話ししてくださったLさんのインタビューに移りたいと思います。以下、人物の名称は全て仮名に変えてあります。

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当日の様子

私たち一家は、お祭りの最終日の7月28日(日)にギルロイ・ガーリック・フェステバルに参加しました。その日は気温が33度を超える暑い日でした。

夫、私、娘のエミリー(3歳)と一番下のシャーロット(1歳)、それから義弟の5人で広大な駐車場に車を停めると、そこからシャトルバスで会場入りしました。フェステバルは大勢の人で賑わっており、私たち一家も朝から晩までいてすっかり満喫しました。

やがてエミリーは疲れてしまい、二人乗りのベビーカーの中でぐっすりと眠ってしまいました。午後6時が閉園ということだったので、最後に露店で何か買って食べることにしました。まさに食べようと腰を下ろした午後5時半ごろのことです。下の子がちょうど目を覚ましたので抱きかかえで授乳を始めました。

銃声

すると突然、パンパンパンパンパパンとどこからか大きな音が聞こえてきました。コンサート会場で花火でも上がったのかと思っていたら、こちらに向かって走ってくる人たちの姿が目に入りました。

”Head Down!” 「頭を下げろ!」と誰か叫び、私たちは慌てて寝ている娘を床に引きずりおろし、自分たちも床に頭をこすりつけました。上の娘は思わず泣き出しました。授乳中の1歳の娘も床にいきなり叩きつけられて痛かったはずですが泣き出しませんでした。

主人はエミリーを抱きかかえると、「この子は僕が連れて行くから、君は下の子を連れて逃げるんだ!」と言うなり走り出しました。私はその時、走るのにはまったく適さない靴を履いていたため、片方が脱げてしまったのです。慌てて履きなおそうとしてさらにもたついてしまい、頭を床にこすりつけたまま立ち上がれずにいました。するとそばにいた人が「Run, Run, Run」と手招きして掛け声をかけてくれたので、その声で我に返って靴は諦め、裸足のまま娘を抱えて走り出しました。

走り出すまでにそれなりの時間を使ってしまったに違いありません。主人の姿は見当たりませんでした。走っている最中に、今度はお財布や鍵などがすべて入った小さなショルダーバッグも落としてしまいました。拾おうかと一瞬立ち止まったのですが、たとえ1メートルでも銃声がしていた方に戻りたくはなくて諦めました。そして、ただひたすら走り続けました。

幸いにも、銃声は止んだようです。仮設トイレが立ち並ぶエリアに着くと、人々は不安そうに銃声がしていた方を見ていました。不幸中の幸いだったは、携帯電話だけは落とさずにいたことです。この時ばかりは神に感謝しました。そしてすぐに主人に電話をしました。

主人も娘も無事なことがわかりました。ところが不思議なことに、私はこのときにはまだあまり恐怖感を覚えなかったのです。まるで、夢の中のいるようでした。銃声もさほど長くは続かなかったようです。せいぜい10秒くらいだったような...。まるで自分が映画の中にいるような、奇妙な気分でした。

避難

次はどうしよう...。何しろ赤ちゃん連れで、しかも裸足です。主人は人の流れに沿って同じ方面に逃げろと言うのですが、その道に行こうにも草むらで、裸足の私には難しい状況ですした。

その間にも、心臓発作を起こした人たちが担架に乗せられて次々に運ばれてきます。胸に手を当てながら苦しそうにしていました。血まみれになっている人は目にしませんでしたが、もしも見ていたら、きっとPTSDになっていたと思います。

しばらくすると、ボランティアの人が野外劇場に移動するよう案内し始めました。そこは、コンクリート製だから安全だというのです。

「ん??? 野外劇場はコンクリート製だから安全!? ってことは、まだ他にシューターがいるってこと? まだ犯人捕まってないの? 」

突然不安が襲ってきました。2人目の銃撃犯がいるらしいという噂が飛び交っていたそうですが、そんなことさえもわかっていませんでした。主人からもボランティアの人からも、警察の捜査の邪魔になるから携帯はなるべく使わないようにと言われので、情報収集をしていなかったのです。なので、状況が全くわかっていませんでした。

テント

野外劇場が本当に安全なのかどうかもわかりませんでしたが、他になす術もなかったので、次の指示が出るまでそこに留まることにしました。おそらく200人くらいの方がそこにいたと思います。 赤ん坊を抱いて裸足、そして放心状態の私を見て不憫に思ったのか、あるメキシコ人の男性が「まだシューターがいるかもしれないから、ここに隠れなさい」と、ステージ横の白いテントを指さました。そこには、彼の家族が隠れていました。

中にいたのは、その男性の奥さまのモニカと、息子のジョナサン、そしてまだ2歳の女の子でした。 やがて、私の娘がぐずり始めました。「このままでは大変だ。もしまだ銃撃犯がいたら、娘の泣き声で隠れてる場所がバレてしまう..」そんな恐怖感に囚わました。

すると、モニカが私の娘にお菓子をくれたのです。この日は非常に暑い日だったので、娘はワンジー(つなぎタイプのパジャマ)を着ているだけでした。ところがどんなに暑い日でも、カリフォルニアの夜は冷え込みます。そんな私の懸念を察したのか、モニカは娘のためにズボンもくれ、さらにおむつも替えるのも手伝ってくれたのです。そして私が主人と電話で話すときには、今度は夫のジャスティーノの方が娘をあやしてくれました。

テントの中のこの優しいメキシカンのファミリーのおかげで、私は落ち着きを取り戻しました。ジャスティーノは、私の気分をほぐそうと、自己紹介を始めました。

「君はどこから来たの?」

「Japanです」

「僕たちはメキシカンだ。そして、彼女は妻のモニカ、こちらが息子のジョナサン、そしてこっちが娘だ」

そんな何気ないやりとりに、ずいぶんと気持ちが救われました。

パニック

20分くらい経ったでしょうか? 「もう大丈夫」というアナウンスが流れてきました。そして、「全員がスムーズに脱出できる方法を考えているから、落ち着いて待つように」との指示もありました。やがて移動開始の合図が出ました。近くの高校からバスが出ることになったとのことで、そこに向かって歩き始めたのです。

するとまた「キャーーーーーーーーーーー」と叫び声が聞こえ、人々が走って野外劇場に戻ってくる姿が目に入りました。

これは後からわかったことですが、私服警官が護衛してみんなを案内しようとしていたところ、その方が持っている銃を見た人が「犯人に違いない!」と勘違いをして、一目散で逃げ出したようです。本当にみんな大パニックで、他人を気にかけている余裕など誰にもありませんでした。誰かが転ぶと、人がその上を駆け抜けていくような有様だったのです。流血している人もいました。

私はその時初めて本当に怖くなりました。自分は今日ここで死ぬかもしれないという恐怖感に襲われました。でも娘を守れるのは自分しかいません。

まず、背に腹はかえられぬとテント内で排尿しました。尿意をこらえながら死に物狂いで走るなんて嫌です。スッキリしたらきっと全力で走れると思い、テントの端で隠れてこそこそと用を足しました。

その後、再び安全か確認できたので移動を開始しました。高校までは歩いて10〜15分くらいだったでしょうか? 自分のグループには負傷者はいませんでしたが、途中で心臓発作を起こして胸を押さえて苦しむ男の人や、半狂乱になって叫び続けている人を見かけました。

歩いて行くと、小さな沢の向こうに白人男性の姿が見えました。「もしかして、彼こそが二人目の銃撃犯なのではないか?」という声が上がりました。私もその男性を見ましたが、焦っている様子もなくただ淡々と森の中を1人で歩いている姿が奇妙に思えました。もしも彼がもう一人の銃撃犯であれば簡単に撃たれる距離だったので、本当に怖かったです。

幸い、彼もまた必死に逃げてきた人の一人でした。

不思議な朗らかさ

奇妙なことに、私の周りにいた人たちは、なぜか皆朗らかでした。笑っている人さえいたいたのです。銃声もだいぶ前に止んでいましたから、気が抜けた人もいたのでしょう。また、そもそも現場近くにいなかった人もたくさんいたに違いありません。

「わぁ〜、あなたすごいわね~。靴履いてないんて、よっぽど走ったのね、大丈夫? 赤ちゃんもかかえて大変ね」

そんなふうに私に話しかけてくる人が何人もいました。

「赤ちゃん抱っこしてあげようかい? 重くないかい?」

気を使ってくださる優しいアメリカンのおばさまもいました。でも私はと言うと、彼女がスニーカーで颯爽と歩いていたことのほうが羨ましかったです。

合流

やがて高校の駐車場にたどり着きました。そこからあちこちの駐車場までスクールバスが出ると言うことだったのですが、その段取りは見事でした。さすが銃乱射に慣れた国だと変なところで感心してしまいました。

中には路肩に車を停め、「Do you need a ride?ベビーカーシートもあるから、送ってあげようか?」と声をかけてくれるアメリカ人男性もいました。でも私はもうすっかり疑心暗鬼になっていたので、断ってしまいました。後になって聞いた色々な人の総合すると、その方は本当に色々な人を助けてあげていたいい人らしいので、なんだか失礼なことをしてしまいました。

再び主人に電話すると、義弟と合流できたので、ウーバーで高校まで来ると言うのです。ただその間も情報が錯綜していました。交通規制が行われているからウーバーでは入って来れない、というボランティアの人たちは言っていたので、一体どうすればいいのかと途方に暮れてしまいました。

私をずっと励ましてくれたジャスティーノ一家だって、まだもう一人の犯人が潜伏しているかもしれない地域には残りたくないでしょう。でも彼は私を放っておけず、モーガンヒル高校のブラスバンド部の一団に声をかけて、私を送り届けてくれるようと頼んでくれていました。モーガンヒルは、私の住む方向と同じ方向だからです。

人々はどんどんバスに乗り込み、次第に人がはけてきました。でも私は、主人を乗せたウーバーがたどり着くまでここで待っていなければなりません。でもしかし、いつまた二人目の銃撃犯が現れるかも知れません。私を送るように頼まれたアメリカ人男性のゲーブ(およそ50代前半)だって、一刻も早くここを立ち去りたいに違いありません。

私とゲーブは、一緒にバスに乗り込みました。ところがちょうどそのとき、ウーバーで高校に着いたと主人が電話で伝えてきました。本当に着いたのでしょうか? だって、ウーバーは交通規制で入れないはずなのです。主人の言っていることを信じていいのかわからず、私は何度かバスに乗ったり降りたりして、乗客たちを苛立たせました。

でも、もしも私がここを立ち去ってしまったら、主人が私を探している間に殺されるかもしれないと思ってバスから飛び降りました。

すると! たった数分前に知り合ったばかりのゲープが「君を放っておくわけにはいかないので、僕もおります」と、バスから降りてくれたのです。人は果たして、こんな極限の状況で、見ず知らずの人にここま親切にできるものなのでしょうか?

幸いなことに、私たちはほんの1,2分ですぐに主人たちと合流できました。夫はエミリーを抱っこしてギルロイの駅まで歩いて逃げたそうです。指示を出す人が誰もいなかったので、自分の判断で駅まで歩いたとのことでした。途中、心臓マッサージを施している人や血だらけの人、また、明らかに死にかけている人や泣き叫ぶ女の子などをたくさん見たとのことでした。また、義理の弟も無事でした。

駐車場に戻るバスがまだ残っていたのでそれに乗り込みました。 ところが後ろに座っていた男性が「他の学校でまた銃乱射があった。このバスはそのエリアを通るのだから、道を回避しよう」と言い出したりして、緊張の連続でした。

駐車場に戻るともう車はほとんどはけており、広大な駐車場にはもう数台しか残っていませんでした。人が殆どいない駐車場は、それはそれで不気味でした。警備の人たちがジープでやってきて水をくれたのですが、薄暗いなかで、全身黒い制服を着た彼らの姿は恐ろしく、さらにジープでやってくるので、銃を持っていたらどうしようかと怯えました。

幸いにもそれは杞憂にすぎず、ゲーブを我々の車に乗せて、彼の住むモーガンヒルまで送ってくれました。

事件後に考えたこと

今回の会場では、不測の事態に備えて数多くの警察官がか会場にたくさん配置されていました。犯人が発砲を始めた時にも近くに警察官がいたため、犯人は1分以内に射殺されたそうです。 それでも3人の方が亡くなり、17人の方が負傷しました。もしも、警備が甘くて犯人が5分以上犯行を続けていたら、5分 x 3人で少なくとも15人の方が亡くなり、5分 x 17人で85人の方が負傷していた可能性があります。そう思うと警備が厚くて本当によかったと思いました。このお祭り、以前は無料だったそうですがで、お金を払っ てでも安全が得られた方がずっといいと改めて思いました。

エミリーは避難の最中に一度もパニックを起こしたりすることなくずっと黙っていたそうですが、家に着いておじいちゃんおばあちゃんの顔を見るなり泣き出しました。そしてその後の1週間は妙に神経が高ぶっていて、すぐに泣き出す情緒不安定な状態でした。まだ何が起こったのかを理解できる年齢でなくても、両親の様子゙を見て、何かを察したのではないかと思います。

今回の事件で、自分が銃が蔓延している国に住んでいるということを改めて実感しました。子連れで大きなイベントやコンサートなどに行く機会はどの家族にもありますが、万が一のことを考えておく必要があるように思います。また、おしゃれをして出かけたい気持ちは、女性ならば当然のことですが、子供を連れてて大人数が集まる会場に行く際は、逃げやすい服装や靴、持ち運びやすいバッグなどに気を配る必要があると思います。

後日談 FBIからの物品返却、そしてカウンセリング

事件後、目撃情報を提供するホットラインに通報したところ、FBIから連絡がありました。しかしそのときにはもうすでに犯人は単独犯であることが明らかになっていた状況だったので、軽く聞いて終わりという感じでした。それでも、まさか自分の人生の中でFBIの捜査官と話すことがあるなんて思ってもいなかったので、記憶に残る体験でした。

事件から10日後の8月7日には、ガーリック・フェスティバルで失ったものををほぼすべて回収することができました。再度ギルロイまで運転しましたが、平和な景色がどこまでも続いています。でも、私の心は、また銃撃があったらどうしよう? という気持ちでざわめいていました。

FBIが保管していた二人がけのベビーカーや、落としたカバン(財布や家や車の鍵など一式)、靴、赤ちゃん抱っこ紐などを見たときには、涙が浮かんできました。戦争を乗り越えて戻ってきた遺品といったら大げさだけど、そういう気持ちでした。よく無事で戻ってきた...。

FBIの人はみんな穏やかでした。最初はボランティアのおばさんたちかと思ったくらいです。なぜかそれなりの年齢の女性が多くて、男性はどこにいったんだろうと思うほど女性が多かったのです。


また、その後無料カウンセリングを受けたのですが、さすが銃乱射大国と言うべきか、犠牲者への対応も素早く、また非常に整っていました。カウンセリング料金は全て州政府かギルロイ市が払ってくれましたし、記憶が正しければで、上限2000ドルか3000ドルまでは、引っ越し代も出してくれるそうです。

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以上でLさんのインタビューを終わりにします。お話を伺ったのは事件発生直後だったのですが、ご本人もまだショックから立ち直っていない中で時間を割いてくださり、ありがとうございました。この場を借りて心より御礼申し上げます。

以上、「銃乱射に遭遇するしたある一家の体験談」をお送りしました。アメリカ在住の方がいらっしゃいましたら、人混みに出かけるときの参考にしていただければと思います。

それではまた。

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シリコンバレー、フィリピン、東京の3ヶ所に拠点を置くBrighture English Adacemy 代表、松井博が、日々あちこちで感じ…

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