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体罰の記憶

教育とはなんぞやシリーズ。
いきなりですが、今回は自分の中にある痛みの記憶を掘り出してみました。
私が小学生、中学生くらいのころはまだ体罰が平気で行われる時代だったと思います。

①小学校の先生
小学校1年生の時の担任が、怖いことで有名なおばちゃん(?)先生でした。学校だと自分の通学路以外の道から帰っちゃダメ、というのがあると思うんですが、ある日私が自分の通学路ではない道から帰って、途中から自分の通学路に合流したことがありました。頻繁にやっていたわけではなく、本当にたまたま友達と話が弾んだかなんかで、他の子達も違う道から帰っていて、途中からは自分の通学路に合流したのですが、その時にたまたま担任がクラスのある生徒と一緒に歩いていて、見つかってしまいました。私のタイミングの悪さは昔から最強です。

そして次の日の朝、私だけでなく他の子達も含めて、みんながいる教室でこっぴどく怒られました。しかも私だけビンタされた記憶があります。他のみんなに一緒に帰ろうと言って誘ったからなのか、反抗的な態度をとったからなのか。1年生だからそれはないと思うけど、なんか私だけ罪の度合いが他の子と違かった。とにかくあの時のビンタは今でも忘れない。

確かに大人になった今なら、通学路以外の道を通ることによる様々なリスクがあること、万が一のことがあったら命にも関わることにもなりかねないから、本気で怒ってくれたんだろう、というのはなんとなくわかりますが、当時小学1年生の私にはわからない。その時はビンタされるほどのことなのかと納得できない気持ち、クラスのみんなの前でビンタされた恥ずかしさや情けなさ、そういったものを感じた記憶があります。

②サッカーチームの監督
小学5年生から高校3年生まで所属したサッカーチームの監督はとにかく怖い人だった。私はしょっちゅう怒られるし、ビンタもされるし、頭も殴られるし、キレてマーカーやコーンやボールを蹴るからいつもビクビクしていた。

もう色んなことで怒られすぎて、ビンタされた記憶すらも、その時どういうことがあったのかも思い出せない。試合で良いプレーができなくて途中交代された時に、監督のところに話を聞きに行ったらビンタされた日の記憶だけはある。とにかく何回かある。社会人チームだったからほとんどが大人で、私以外にも同年代の子はいたけど、私が1番ビンタをされた自信があるし、他にもされてた子はいたけど、まったくされない子もいた。私が1番下手だったし、しょうがないけど。とは言ってみるが、そういう問題ではないですよね。

③お母さん
お母さんには普通に何回かビンタされていたと思う。あんま覚えてないけど。でもたぶん大抵私が悪いことをした時だと思う。1番強烈に覚えているのは、中学生か高校生くらいの時、私が夜遅くまで友達と遊んで連絡もせずに夜中に帰ってきたことにブチギレたお母さんの1発。確か私も怒られて、口答えをしたような気がする。反抗したけど、瞬時にビンタでねじ伏せられたあの時の感じと、反射的に涙が出てきちゃうあの感じが今でも忘れられない。お母さんも心配してたのに口答えしてきたらそりゃあ手も出るよね。今だったらわかるけど、当時はそりゃすねるわけです。でもお母さんはすぐ切り替える人だから、怒った感情を引きずらないし、殴ったことはごめんって言ってくる。そんな記憶です。

自分の経験を振り返ってみましたが、あんまり①と②に対して、今でもその経験があって良かったとはあんまり思わない。②に関しては、私は間違いなく心に傷を負ったし、サッカーが嫌になって辞めようとした時期もあるから、受け入れ難いのです。③に関しては、やっぱりお母さんだからか、あまり悪い印象はない。

体罰を肯定するつもりはまったくないけど、完全否定したくないのは、どこかでお母さんの心の痛みは実際の私の肌の痛みがあったから深く自分の中に入ってきたと感じているからなのかもしれない。娘の帰りが遅いことへの不安や心配でたまらない気持ち、小さい頃から大事に育てた娘に反抗されるショックや辛さ、それは私が肌で感じた痛み以上の苦痛だったと思うから。衝動的に手が出てしまうほどの感情が生まれるのもそれもひとつ人間らしさだし、それに触れたことで私の中で真の反省が生まれたわけだから。

ただこれは理屈としては間違っている気がします。ビンタをせずに、ただ抱きしめて「心配だったのよ」というだけで済む、というのが一般的な見解かもしれない。私がただお母さんを否定したくないだけ、あるいはこの経験をした自分を肯定したいだけの一種の防衛反応かもしれない。私のこの見解が重大な欠陥な可能性もあるので、これについてはちょっと勉強してみます。

私が大好きなドラマ「女王の教室」では、いじめている子に「君には生きている価値はないから」と川から飛び降りるように言い、挙げ句の果てに「どうして人を殺しちゃいけないんですか?」と言う生徒に対して、天海祐希さん演じる阿久津先生は平手打ちをします。その後揉み合いになり、先生が生徒に首を絞められ、意識を失いかけますが、最後の気力を振り絞り、彼の首を絞め返しながらこう言います。

教えてあげる。なんで人を殺しちゃいけないか。死ぬ時は痛いからよ、苦しいからよ。死にたくないって叫びたくなるからよ。これが痛みなの。あなたが今まで他の人に与えてきたものなの。人は死んだら、もう家族にも会えないの。友達にも会えないの。その人の大切な夢や希望や思い出まで全部消えて無くなってしまうの。この世の生きている人の未来を奪う権利なんて誰にもないの。だから人を殺しちゃいけないの。

女王の教室スペシャル エピソード2 〜悪魔降臨〜 より

ドラマ内でこの生徒はクラスで数々の悪行をするのですが、それを見てきて迎えたこのシーンで、「それでも体罰はいけない!」と単純に言う気には正直ならない。「あなたが今まで他の人に与えてきたものなの。」という言葉に全てが詰まっていて、しかもそれはむしろこんな身体的な痛みとは比べ物にならないの、という話です。身体的な暴力より精神的な暴力の方が脳へのダメージが大きいというのは科学的にも証明されているわけで。身を挺して教育的な指導をした阿久津先生に「はい、体罰ですね〜、クビですね〜」とは、うーん、言えない。

極論、上記の例みたいに誰かに「人をなんで殺しちゃいけないか」や「なんで人に危害を加えてはいけないか」と言われたら「痛いから」と言って殴ってあげなきゃいけないかもしれない。人に痛みを与える人には、これが痛みなんだって教えてあげなきゃいけないかもしれない。流暢に言葉で説明したってわからないものはわからないかもしれない。そう考えると、怖いです。

ここまでだらだら話をしてきましたが、特に着地点はないです。自己開示トレーニングの一環として、今回は「そういえば体罰された経験があるな」というところから、アウトプットしていたら、そもそも体罰ってなんだろね、女王の教室最高だよね、という話になっただけです。私の脳の思考回路が飛び飛びになってしまうだけです。思いついたことを並べているだけです。体罰はダメですよもちろん。ただ物事には様々な状況が複雑に絡み合っている背景があるのかもしれない、そう考えると切り取りで判断はできないかもしれない、正論だけでは難しいのかもしれない、という話です。世の中の物事はもしかしたらなんでもそうかもしれません。それがたとえ法に触れることだとしても。だれかにとっては正義である可能性があるから。

世の中って難しいなあ。そう考えるといつも浮かぶのはこのフレーズ。

人であることはなんてめんどくさい
そう思えるだけ素晴らしい
だから心思うまま叫んだらいい

ケツメイシ 心の声 より

長々と失礼しました。

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