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「私」という存在

前書き

10代の頃、友人に勧められて読んだ本を改めて40代になってから読んでみたのですが、当時理解しえなかった事が腑に落ちました。

『自己不安の構造』 石田春夫 著 講談社

そのレポートようなのを数年前に書いていて、公開するつもりはなかったのですが、最近、このレポートが誰かの参考になればいいなぁと思い公開することにしました。

本編はここから


「私」の心の奥底は無限の宇宙の奥底よりも広く深い。


無限の宇宙のなかに存在する自分。そして自分の中にも同じように宇宙が広がっている。


生き生きと躍動するエネルギーそのもの。

この本を読み進めるに、この思いは強くなり確信となった。

時間の中にいきるのではなく、時そのもの「今」である。

つまり、自らの歩みによって時が生まれ、空間が生まれる。

「私」は「時」を媒体にして宇宙の諸生命に連なっている。

生まれたばかりの赤ちゃんは、生きるエネルギーそのもの。体の細胞分裂や増殖にまかせて育つのみ。

3歳ぐらいの子に「君は誰だい?」と問うと、「私は私だよ」と答える。

「私は私だよ」の意味

ヘーゲルによれば、この表現のなかには、絶対的理性と自由の原理があらわされているという。自我(主体)と客体とが統一されている。

つまり、理性的であり自由であるという精神の原理を表明している。

こどもたちは、まだほとんどが人工的汚染を受けていないため、「見る自分=見られる自分」が一致してる。

名前や性別は「他者から認識されるために必要な記号」であって、自分に必要なものではない。
実際、記憶がなくても命には問題はないし、性別は生まれた時と異なる性をもつ人もいる。「私という存在」には特に必要なのではない。

生まれた時に男女のどちらかに判別をされ、その性をもって成長過程で、他者によってカテゴリー別に育成されていくのである。

私たちが「私だ!」と思っているものも、実は他人の眼によって作り上げられた「見られる自分」なのである。

そして、「見られる自分」は他者の眼からの贈り物なのである。

本能を失ってしまった人間は学習によって自分を形成していくが、この学習が「他者の視る目」を「自分の眼にしていく」ことなのである。

性格は他人によって作られる。良い悪いのどちらにしろ、「あなたはこうなのだ」といわれ続けることで形成されていくのである。

「私は○○○○です。」と言ったところで、それを承認してくれる人が存在しなければただの独り言で、「そうだね。あなたは○○○○だね」と応えてくれる人が必要である。


人間は神によって土の塵から創生されたという聖書の話。


形ない粘土から彫刻家の手によってさまざまな形になる彫刻のように、無形態なエネルギーでしかない「本来の自分」は、他者の眼によって「見られる自分」の形態につくりあげられているのである。

つまり、「見られる自分」は、他者からの眼によってつくられ、支えられている。
したがって、「他者は私にとって一種の神」なのである。

ゆえに「他人からの評価・反応」が気になるのである。

パスカルは、「想像力が人間の理性に打ち勝ったことはない。想像力は万事を左右する。それは美や正義や幸福をつくる」といった。
病院で白衣を着ていたら、「ああ、あの人はお医者さんだ」と思うのが一般的で、「白衣が好きで私服で着ている患者さん」という発想はしない。しかし、白衣好きの病人が通院していることはないとは言えない。

"私の体験談。

ある宿泊施設でのこと。

私が聖書関連の本をもって首からロザリオを下げていた時のこと。
(その時宗教学の勉強中だったので参考文献として読んでいて、デザインが好きなのでロザリオつけていたのでクリスチャンではありません。)

食堂で友人としゃべっていたら、突然話かけられ、「さっきの集会でましたか?いつから参加してますか?」と聞かれました。

「?????」と思ったら、たまたまこの日、キリスト教関係の集会が開催されていたようで勘違いされたようでした。

「聖書関係の本を読んでるし、ロザリオしてるし、そうだと思いました」と言われました。

それ以降ファッションで、クロスやロザリオをするのはやめました。"

「見られる自分」の不安

独自の発想や発見が不得意。他者の眼がなくなると自己証明をする術がなくなり、自己不安に陥りやすい。他者によって操作や支配される危険性がある。互いに「本来の自分」を内に秘めての関係であることが多いので、ささいなことで関係が崩れる可能性がある。

「本来の自分の叫び」を大切にする。

自分の内なる声に耳を傾ける人にとって、「見られる自分」として他者の眼の中に生きることは苦痛でしかなく、不安を抱く。結果、自己探求をすすめることで自己不安に陥ることとなり、その様も精神的不安な状態と他者に認識されるのである。

本来の自分に戻ろうと、肉付けされ、装飾されてきたモノたちを剥ぎ取ろうとすることは、傷の上を覆うかさぶたを剥ぎ取るようなことで、苦しみと痛みを伴うことなのである。

”百の鏡の間で お前は自分が自分がわからなくなる。” ニーチェ

人間は両極端である「本来の自分」と「見られる自分」とのバランスで成り立っている。どちらかが強くなったり弱くなっても人間として社会で生きていくことは難しい。

このふたつをつなぐのが、「見る自分」(直観、心の眼)。

「私」の中にあって、「私」の内部を見る眼である。
 ※思考や理性は「見られる自分」であって、その確実性に役立つもので「見る自分」でなない。

幼児…「本来の自分」「見る自分」が強い。直感のみ。快か不快かのどちらか。

学童…他者によって「見られる自分」を形成されていく時期。「本来の自分」「見る自分」の存在は希薄。

思春期、青年期…「本来の自分」「見る自分」の存在が強くなり、「見られる自分」との間で葛藤する。自分の内部抗争時期。そのため不安定になりやすい。

壮年期…社会人としていきている場合が多いので、「見られる自分」としての役割を生きていることが多い。

老年期…「本来の自分」のエネルギーが弱くなり、相対的な「見られる自分」が重荷となりやすい。そのため精神的に不安定になりやすい。

上記に書いた「三つの自分」は、すべての人に存在するが、その力の強弱、バランスは同じではない。その人の生きている環境、年齢によって異なる。
今、自分がどんな環境で生きていて、何を考えて生きているのか?

そのことがわかるのが「見る自分」である。客観的に「見られる自分」をみて知ることで「わたし」への理解は深まるのではないだろうか。

日常の社会人、組織の中の一人として生きていくためには、「見られる自分」が強化され整備されていることが大切である。

他者からの承認によって理想とする「見られる自分」を作り上げ、社会で暮らすことができるからである。
この場合、「本来の自分」「見る自己」の存在は薄い。

一方、クリエイティブな仕事や芸術家の場合は、「本来の自分」「見る自分」が強く、他者の眼を必要とする「見られる自分」の存在は希薄である。

対象や世界、宇宙と己を一体化させ、共鳴させることが自由な創造や発想の手助けになるのである。そして意識的にも”「見られる自分」にとらわれない自分”になろうとするので、日常には変人や奇人、奇矯として認識されやすい。

他人の眼や心が常に自分につきまとっているし、また他人を見る、他人を思う心を自分も持っているため、他人から離れることができない。

そのなかで、「自分を発見する」ためには、独りでないことを忘れること。「見られる自分」を忘れること、また、”「見られる自分」を忘れようとする分別する自分”を忘れること。そして、「独りではないということを忘れるといことを忘れる」こと。そこでやっと「自在に自由である真理の私」を見つけることができる。

道元の言葉 (『正法眼蔵』現成公案)
”仏法習ふといふは、自己を習ふなり。自己をならふというは、自己を忘るるなり。自己を習ふといふは、万法に証せらるるなり。"

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まとめ


これは読感レポートなので、かなり私なりの解釈が入っているし、体験談も入ってます。その上で内容が伝わったらいいなぁと思います。

この本を読んで、私はとても救われたことが多かったので、自分なりに噛み砕いて内容をお伝えできればと思いました。

長々と読んで下さってありがとうございます💖

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