先輩と影
この学校の生徒で、榊原美雪先輩のことを知らないひとはいないだろう。
容姿端麗で成績優秀で陸上部のエース。短く揃えた髪と切れ長の瞳が印象的で、すらりと長い足で彼女が歩けば、そこにいる誰もが振り向かざるを得ない圧倒的な存在感。まさに、全校生徒の憧れなのである。
私もまた、榊原先輩に憧れる女子生徒のひとりだった。
自分で言うのもなんだけれど、私、先輩とは違い、生れながらにして凡人である。「山村花子」というなんの捻りもない名前に、ゴマ粒を並べたみたいな地味な顔立ち、細くも太くもないのっぺりとした体型、頭から足元の爪の先に至るまで、何ひとつ特筆するべき要素が見当たらない。おまけに成績も中の中で、自己主張も苦手なために、新学期が始まって3ヶ月が経ったいまでも、クラスメイトの大半はおそらく私の名前を覚えていないだろう、と思える存在感のなさである。
榊原先輩は、どこにいても目立っていた。自分にないものをたくさん持っている先輩に密かに憧れを募らせた。
私が先輩と初めて会話らしきものを交わしたのは、6月のある放課後のことだった。
廊下を歩いていたら、前方から、先輩と先輩のご友人が歩いてきた。私はぎくりと緊張する。解凍したての肉のようなぎこちなさで先輩の横を通り過ぎようとした。
その瞬間、私は足をつんのめらせて思いきりすっ転んでしまった。
痛い、よりも、恥ずかしい、のほうが遥かに大きかった。先輩の目の前で転ぶなんて。これじゃ先輩の気を引こうとしてわざと転んだみたいだ。やだー、大丈夫ー?とちっとも心配していない様子の何人かの声と、くすくす笑いが聞こえる。
じわり、と膝に血が滲む。泣きたくなってくる。
そのときだった。
「大丈夫?」
声に顔をあげると、目の前に、榊原先輩のきれいな顔があった。びっくりした。何事かと思って私は目を瞬かせた。
一緒に歩いていた友達に、「先に行ってて」と促し、手を差し伸べてくれた。さらに、
「ケガしてるよ」と絆創膏を渡してくれる。
ありがとうございます、と言いたかったけれど、うわずって声にならなかった。あ、とか、う、とか言っているうちに、
「それじゃ、気をつけてね」
と先輩は私の肩をポンと叩いて、颯爽と去っていった。
私はしばらく、ぽうっと彼女のしなやかな背中を見つめていた。
先輩にとって、誰かに親切にすることは、きっとごく当たり前のことなのだろう。だって私に優しくしたところで、なにかメリットがあるとも思えないし。
どうしたらあんな風になれるのだろう。いや、私と先輩では生まれ持ったものが違いすぎる。それはわかっている。でも、知りたいと思った。先輩についてもっと知ることができたら、ほんの少しでも近づけるのではないか。そう思ったのだ。
その日から、私はそれまで以上に、榊原先輩を目で追うようになった。
しかし、学年が違えば、偶然すれ違うことなど滅多にない。あのときはまぐれだったのだと思い知る。でも、離れたところから眺めることならできた。先輩はどこにいても目立つ。先輩の周りだけ不思議と光を帯びて見える。たとえば体育の授業でグラウンドを軽やかに走る姿や、部活で高飛びをする先輩のしなやかな体の動き。きれいだな、と私は窓辺の席からぼんやりと眺める。
このときは、思いもしなかった。私が憧れの先輩に、ストーキング行為をはたらくようになるなんて。
その日は雨で、陸上部は休みだった。今日は先輩を見れないのか、と私はがっかりしつつ、残っていてもやることがないので帰ろうとする。
学校を出たところで、なにやら挙動不審な動きをする人物がいた。榊原先輩だった。私はなぜかとっさに校門の陰に身を隠した。
先輩はキョロキョロと辺りを見回し、傘で顔を隠すようにして、早足で歩いていく。
なにをしているのだろう?ものすごく気になった。
先輩がひとりでいること自体珍しいけれど、いつも堂々として自信に満ち溢れている先輩が人目を気にするというのも意外だった。
もしかして、なにか、人に見られたらまずいことでもするのだろうか。
私はこっそりと先輩の後を追うことにした。
意外にも、尾行はうまくいった。存在感がなくてよかったと思う。通行人は榊原先輩の美しさに見惚れることはあっても、その後ろをついてくる不審な女には目もくれない。傘で顔が隠せるのも好都合だった。ひょっとすると、私は尾行にかなり向いているのかもしれない、とまで思いはじめていた。
そして、尾行はなかなか楽しかった。学校では決して見られない、先輩の意外な一面をたくさん知ることができた。たとえば、先輩は身体能力や頭脳だけでなく、女子力も高いらしいということ。
先輩は駅前にあるコーヒー豆や輸入食品なんかを取り扱っているらしいおしゃれなお店に入っていった。店内に足を踏み入れた瞬間、喫茶店にでもいるかのようにコーヒーの芳醇な香りをふくんだ空気が漂ってくる。そんなところに縁のない私は、すこし緊張しつつも思いきって足を踏み入れた。先輩が熱心に見ていたのは、お菓子づくりのコーナーだった。先輩がお菓子づくりに興味があるとは意外だと思いながら、私は棚の陰からこっそりその様子を眺めていた。
先輩は周囲をちらちらと気にしながら、お菓子の材料とお菓子づくりの本を素早くカゴに入れた。そのまま足早にレジに向かう。おそらく、学校でのキリッとしたイメージとは違うため、知り合いに見られるのが恥ずかしかったのだろう。榊原先輩にそんな可愛い一面があると知ったら、先輩のファンは悶絶するに違いない。自分だけが先輩の秘密を知っているのだという優越感に浸っていると、先輩が店を出たので、私も慌てて後を追う。
それから先輩は、ケーキ屋のマフィンをじっと見つめたり、ゲームセンターのケースに陳列されているぬいぐるみを眺めたりしながら駅に向かった。先輩は甘いものと可愛いものが好きで、電車通学ということがわかった。私は電車ではないので、名残惜しさを感じつつそこでお別れすることにした。
ところが後日、この尾行を続けるうちに、おそらく見てはいけないーー少なくとも先輩は絶対に人に見られたくはないであろう光景を、私は目撃してしまうことになる。
「受け取ってください」
と、榊原先輩は花柄のリボンでラッピングされたピンク色の包みを差し出した。それから、「部活の子にも配ったんで」と慌てて付け加える。
「えっと、ここで開けてもいいかな?」
どこかキョトンとした顔でそう言ったのは、なんと、数学教師の清水先生だった。そういえば、清水先生は陸上部の顧問でもあることを思い出す。
袋の中身は、マフィンだった。ピンクや黄色で可愛らしくアイシングされた宝石みたいなマフィン。売り物みたいなクオリティだけれど、先日の行動を見ていた私は、先輩がつくったものとすぐにわかった。
「きみがお菓子づくりが得意だとは知らなかったよ。ありがとう、嬉しいよ」
と清水先生は破顔した。真面目そうな先生だけれど、こんな柔らかい顔もするんだな、と思う。
しかしなにより驚いたのは、先輩の表情だった。ちらりと見えた先輩の横顔は、いつものクールな様子はなく、真っ赤に染まっていて、恥ずかしそうで、それでいてすごく嬉しそう。
私は、誰かに対してそういう感情を抱いたことはなかったけれど、それでもわかった。先輩は、清水先生のことが好きなんだ。
先輩と清水先生の関係は、どれほどのものなのだろう。特別親密ではなさそうだけれど、手づくりのお菓子をプレゼントするくらいだから、仲はよさそうだ。もしかしたら、先生と生徒以上の関係に、これからなる可能性だって否定はできない。
とんでもない秘密を知ってしまった。先輩のファンがこのことを知ったら、どんな顔をするだろう。優越感に浸るところなのに、なぜだか、モヤモヤとした気持ちだけが残った。
私はそれからも先輩の尾行を続けた。先輩が気づいている様子はまったくなかった。いつも周りに誰かしらを引き連れている先輩だけど、たまに1人になる瞬間があった。よくよく見ていると、先輩はわざと群れから逃げているように見えた。人気者だって、たまにはひとりになりたいときもあるのだろう。
そういうとき、先輩は駅前のコーヒー豆の匂いがする食料品店に立ち寄り、お菓子の材料を買った。清水先生にあげるときもあれば、あげないときもあった。あげないときはどうするのだろう。練習して、家族にあげるのかもしれない。
私には知り得ない先輩の家での様子を想像して、ふふふっと微笑む。我ながら、これはちょっと気持ち悪いな、と思った。
7月にはいり、梅雨が終盤に差し掛かっていた。連日雨が続き、期末テストが終わったその日、私はまた、とんでもない光景を目にしてしまう。
「先生のことが、好きです」
榊原先輩は、瞳を潤ませてそう言った。
私はびっくりして、足元の消化器に引っかかって、またしても転びそうになった。カタンと小さな音がしたけれど、でも、2人には届いていないようだった。
清水先生もまたびっくりしていた。先輩の気持ちにまるで気づいていなかった様子だ。どれだけ鈍感なんだ。
ひとしきりうろたえた後、清水先生は困ったように頭をかいて言った。
「生徒をそういう風には見れないよ。ごめんな」
榊原先輩はその答えをはじめからわかっていたみたいに、ふっと笑みをつくった。
「……ですよね。ちょっと言ってみただけです。気にしないでください」
先輩が泣いている。号泣ではなく、雨粒が窓ガラスをゆっくりと伝うような静かな泣き方。それはものすごく先輩らしいな、と私は物陰からその様子を見つめながら思った。
いったい何をしているのだろう、とは我ながら思う。人が失恋するところを見て楽しめるほど悪趣味じゃない。だけど見てしまったら、見なかったことにはできない。
振るくらいなら、手づくりのお菓子なんて受け取らなければいいのに。あのちいさなマフィンに、先輩の想いがどれほどこもっていたか、わからないのか。
私は、腹を立てていた。けれどそれ以上に、ものすごく胸が苦しかった。私には何もできない。ただ隠れて見ているだけで、慰めの言葉をかけることすらできない。
先輩は学校を出てふらふらと歩いていった。足取りは覚束なく、ふとした瞬間に倒れてしまいそうだった。
いつも通り、声をかけるつもりはなかった。あくまで気づかれないよう、影のように、後をつけていた。はずなのに、同時に、思ってしまった。
私に気づいてほしい。
私の存在に気づいてほしい。影じゃなく、目を合わせてほしい。あのときみたいにーー。
そのとき、ふと、気づいたことがあった。
私の他にもう1人、先輩を尾行している人間がいる。そいつは男だった。見たことのない、中年の無精髭を生やした男だった。私とは違う、明らかに、先輩に何かしようとタイミングを伺っているふうだった。誰が見ても変質者とわかる目つき。そしてその手には、小型のナイフが握られていた。男はそばにいる私の存在には気づかず、先輩の後ろ姿だけを舐めるように見つめている。
やばい、と私は思った。これは本格的にやばいやつだ。どうにかしなければ。でも、どうすればいい?
先輩が曲がり角を曲がった。まっすぐに駅に向かう様子はなかった。
ーーお願い、逃げて、先輩……!
男がタイミングを定めて前に出た。ナイフを両手に握りしめている。素早い動きだった。
「危ないっ!」
「え?」
気づけば私は、先輩を思いっきり突き飛ばしていた。放心していた先輩は簡単によろめき、後ろに倒れた。ゴン、と何かに当たったような音がした。先輩、と声をあげようとした、その瞬間。
ずぶり。
腹部に激痛が走った。ぬるりと生暖かい感触。血だ。私の血が、ひたひたと地面に落ちる。
「な、なんだお前……」
突然出てきた私を見て、男は驚愕した。そしてナイフを抜くことも忘れて、大急ぎで逃げていった。
私はがくりと膝を折りうずくまった。痛い。ものすごく痛い。誰かの叫び声がする。救急車を呼んでいるようだ。意識が遠のいていく。うっすら目を開けると、霞む視界に先輩が気絶しているのが見える。
よかった。私は思った。刺されたのが先輩じゃなくて、よかった。
なんの取り柄もない私でも、誰かを守ることができたんだ。
全治三ヶ月。手術の末、私は三ヶ月間、病院で車椅子生活をすることになった。三ヶ月ですんでむしろ幸いだったと、手術医は言った。それほど傷は深く、私の命は危うかったのだ。
入院中、何人かが部屋にやってきた。警察が来て事情聴取をされた。ありのままを伝えた。もちろん先輩をつけていたこと以外は、だけれど。
犯人は間もなく捕まった。何度も逮捕歴があるという。もう二度と出てこなくていいと思った。
そのあと担任の先生が来て、連絡事項を伝えていった。ほんとうに必要なことだけを簡潔に話し、あとは取り立てて会話が弾むこともなく、「それじゃあお大事に」と言って病室を出て行った。べつにわざわざ来てもらわなくてよかったけど、彼らに言っておくべきことがあった。
「私が刺されたことは、他の人には言わないでください。榊原先輩にも」
後悔はなかった。むしろ運動音痴な私が、よくもあんなに俊敏な動きができたものだと、自分に感心しているくらいだ。でも、誰よりも、先輩には知られたくなかった。私は恩を売りたかったわけじゃないし、先輩をストーキングしていたことを知られたくなった。私は最後まで影でいい。それ以上はいらない。先輩に気持ち悪いなんて思われたら終わりだから。
車椅子でなかなか自由に動けないことを除けば、入院生活はなかなか快適だった。静かで、外のじめじめした空気とは無縁で、必要以上に人と接しなくていい。私は本を読んだり、窓の外を眺めてぼんやりしながら過ごしていた。空には雲が多く、なにか見えない力に押し出されるようにして窓の外を流れていく。その隙間から、きらりと光るように晴れ間が見える。夏がもうすぐそこまで迫ってきているのを感じる。
夕方、横になって本を読みながらうとうとしていたときだった。
コンコン、とドアがノックされ、問診かな、と思いながら返事をする。ドアが開いて、私は目を見開く。
「こんにちは、山村さん」
と、榊原先輩は言った。
夢でも見ているのか、と疑った。だって、こんなことがあるはずない。先輩が、ここにいるなんて。
私はばかみたいに口をパクパクして先輩を凝視した。どれだけ見つめても先輩は先輩だった。どこにいても光をまとって輝いている、私の憧れの先輩だった。
「な、なんで、ここに……?」
やっと言葉を発すると、先輩は当たり前のように言った。
「決まってるでしょ。あなたに会いに来たのよ」
そうか、誰かが先輩に教えたのだ。私がここにいることを。警察と担任を口止めするだけじゃダメだったらしい。噂はどこから漏れるかわかったもんじゃない。
けれど、私の予想は間違っていたらしい。
「あのとき、チラッと見えたんだ。あなたの顔」
「え」
てっきり、先輩は気を失っていると思っていた。見られていたのか。
それにね、と先輩は微笑みながら、さらに衝撃的なカミングアウトをする。
「前から知ってたよ。あなたが、あたしを尾けてること」
うそだ。気づいている様子なんて、少しもなかったのに。もしかしたら、油断して、ヘマをしてしまったのだろうか。いつ?どこで?
「先月の雨の日から、だよね。あたし、そういう人の気配みたいなのに敏感なんだ。だからたまにひとりになりたくなるの。でも、あなたは私に声をかけてくることはなかった。それなら、べつにいいかなって思ったんだ」
「ごめんなさい……ダメなことをしているのは、わかってたんですけど」
先輩は首を振った。
「謝らないでよ。あなたは私の恩人なんだから。それに、あなたが見てくれてたから、思いきって告白してみようって気になれたんだし」
「えっ?」
「変だよね。見られてるから勇気がでるなんて。でも、1人だったら、告白どころか、お菓子をあげることすらできなかっだと思う」
ぽかんと口を開けたままの私に、
「ま、振られちゃったけどね」
と先輩は苦笑した。
「あのときは、なんにも考えられなくて、あなた以外の誰かに尾けられてることにも気づかなかった」
先輩はガラス玉みたいな大きな瞳が私を見る。
私は思わず息を呑む。
「だから、今日はそのお礼に、これを持ってきたの」
先輩が後ろに持っていた紙袋を見せる。ケーキ箱だった。箱の中には、宝石みたいに彩られたケーキがふたつ、入っていた。
「せっかく作れるようになったからね」
と、先輩は照れたように笑った。
私はなんだか泣きたくなる。でも、先輩がもう泣いていないのに、私が泣くわけにもいかない。ぐっと堪えていると、
「なんて顔してるのよ」
と私の頭をなでた。
榊原先輩と話すのは2度目のはずなのに、そんな気がしなかった。前よりもずっと先輩を近くに感じた。それは、学校での凛としてカッコイイ先輩ではなく、じつは甘いものと可愛いものが好きで好きな人のために影で努力する、普通の女の子と変わらない、女子力高めな先輩の素顔を、知っているからだろう。
先輩と一緒にケーキを食べて、笑いあいながら、胸の中がぽうっと温かくなってくるのを感じる。
この胸の内に生まれた感情を、私はいつか、言葉にしたいと思った。たまには影からでて、日の当たる場所に行ってみてもいいかもしれない、と。
いますぐにはできなくても、いつか。
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